午後、十二時十分。
来るべき時間の為に、俺は準備を始める。
ここで手首や足首を慣らしておかなければ、全力を出し切る事は難しいのだ。
そう、スタートダッシュが何よりも大事だしな。
俺は、退屈な授業の間中、話を聞いているフリをしてストレッチを開始する。
…
午後、十二時十八分。
廊下側の窓から教師の隙を見て廊下を覗き、状況を確認する。
障害物があっては、俺のこの努力が無駄になる可能性だってあるのだ。
ダッシュをかけるのも、廊下のどのポイントで始めるか…俺は綿密な計画を練って、そして頭の中でシュミレーションを開始する。
…
午後、十二時二十四分。
いよいよ、授業終了一分前だ。
終了のベルと共に俺が教室を飛び出すまで、あと一分。
慎重にやれ、飛び出すタイミングを誤ると、教師に引きとめられる可能性がある。
いかん、いかんぞ俺。
そんなことをしていたら、他の奴らに先を越されてしまう。
そう。
俺は誰よりも早くあの場所へと行かなくてはいけないのだ。
一日限定十五食。
家庭の味が超魅力、溢れんばかりのルーが詰め込まれている「カレーパン」がある、購買へと。
両親共に方向音痴、家庭の味など殆ど味わう事ができない俺にも、「何だかこれが家庭の味か」と感じさせる不思議な魅力のカレーパンだ。
つい最近購買にラインナップされたメニュー。あまりの人気と、そしてあまりのボリュームゆえに、一週間に一度しか購買に並ばない。
それゆえ、このパンが購買に並ぶ今日は、いつも以上に込み合う事間違いなし。
男子校の昼は殆ど「戦争」だ。ぼやぼやしていたら、残った「あんぱん」くらいしか買うことが出来ない。
「あんぱん」は嫌いじゃないけれど、牛乳片手に二個も三個も食べるのは、流石に若い男子でも辛い所だ。
…
俺は、時計をじっと見つめた。
時計の秒針が、いよいよ数字の「十一」へと差し掛かった。
スタートダッシュへのカウントダウンの始まりだ。
五、
四、
三、
二、
一…
GO!
キンコーン、キンコーン…
時計の秒針がカチン、と十二の上へと重なった。それと同時に、時計の短針と長針が授業終了の時刻を差す。
午後十二時二十五分。
ようやく授業終了時刻の到来だ。
「あー、今日の授業はここまで」
ベルを受けて、教師が黒板を向いたままそう呟き、
「来週はテストを…」
そのまま今後の授業の予定を皆に伝えるべく、教室内を振り返る。
教師が、毎回の授業でそういう行動を取る事は事前にリサーチ済みだった。
なので俺は、担任が振り返る前に教室の後ろから外へ出て、廊下を猛ダッシュで走り出した。
俺の教室は、購買がある棟から少し離れている。
だから、購買に近いところにある教室の奴らには、どうしても叶わない。
それでも早く走れば、限定食だって手に入れる事は可能だ。
俺は運動が得意だし、何より足は速い。
陸上部にも誘われるほど足の速さには定評がある俺が、真剣に購買目指して走るのだ。
綿密にシュミレーションもしたこの行動に、不可能という文字はないのだ。
コーナーをギリギリに回り、上履きのかかとのゴムを駆使して上手くブレーキをかける。
直線の廊下に差し掛かったら、少し上体を倒して一気に走り抜ける。
走り終えたら、階段だ。二段三段、二段三段の順に降りればそこは、昇降口。
一気に外へ飛び出して、左に曲がって渡り廊下を飛び越える。
現われた花壇の並ぶ裏庭を突っ切って、最後右に曲がれば…いよいよ目的地、購買だ!
「さー、カレーパン欲しいか、カレーパン欲しいか!」
ドドドドドド…
購買の中央で、白い割烹着姿の中年おばさんが、トングにカレーパンを挟んで叫んでいた。
周囲には、男子生徒たちが殺到する地響きがする。
オバサンの手と、トングに挟まれたカレーパンしか入り口からは確認できない状態だ。
「くれー!カレーパンくれー!」
「俺だー!」
押し合いへし合い、さらには前にいる生徒に、次から次へとのしかかって、皆がオバサンの方へと近づいていく。
おばさんはなれた手つきでパンを投げ、受け取った生徒から素早く金を徴収する。
他のパン売り場も勿論ものすごい人だかりだが、限定食のカレーパンを売っている場所は更にすごい人だかりだ。
予想をしていたとはいえ、俺は一瞬息を飲んだ。
しかし、まだカレーパンが売り切れた様子ではないので、前に出れば何とかなる。
俺は、覚悟を決めてそのまま人だかりの山へと突進した。
そして、
「さー、本日最後のカレーパンだよ!…てい!」
ビュっ…
あまりの混雑、大混乱にすっかり髪の毛も乱れ声もかすれたおばさんが、トングに挟んだ本日最後のカレーパンを投げた。
「俺だー!」
「俺のだー!」
その途端、パンの落下点に人柱が生まれた。
我こそは、我こそは…と、重なるようにジャンプをし、その宙に待ったカレーパンへと手を伸ばす。
「く!」
もちろん俺だって、奴らには負けられない。
それに、脚力だけじゃなくてジャンプ力だって、他の奴らよりも自信があるんだ。
俺は、重なっている生徒たちの背中を踏み台にして高くジャンプをした。
そして、いよいよその、宙に舞ったカレーパンへと手を伸ばす。
チラッと視界には、他の奴らの悔しそうな顔。
俺の伸ばした手の数センチ先には、お目当てのカレーパン。
やった。
やったぞ、俺。
あの美味しいカレーパンを、今日は手に入れることができるぞ!
「もらったあ!」
俺は思わず声を上げながら、数センチ先のカレーパンへとぐっと手を伸ばした。
と、その時だった。
ぶぎゅる!
「!?」
カレーパンへ手を伸ばしていたはずの俺の頭に、何かが乗っかった。
おかげで俺は体制を崩し、それまで悔しそうに俺を見ていた男子生徒たちの上へと落ちる。
手を伸ばせば届くはずだったカレーパンが、どんどん遠くなる。いやそれどころか、
ぱふっ…
何かに潰された俺の視界に、俺が手にするはずだったカレーパンを口にくわえて、ジャンプしていく男子生徒の姿が見えた。
俺の視界を横切り、フワリと床に着地したその男、もぐもぐと手に入れたカレーパンを食べながら、ゆっくりと俺を振り返った。
男のクセに、髪の毛を長く伸ばして後ろで一つに結っている。
俺よりも少しだけ背が高く、そしてにやりと俺を見たその男…見知らぬ顔だった。
「…」
カレーパンをその男に奪われた俺は、群れから離れ、にやりと笑ったその男と向かい合った。
男は、ポケットに両手を突っ込んで自分を睨んでいる俺を、見詰めている。
…人よりもジャンプ力がある俺を、軽々と飛び越えた上に踏みつけてパンを奪った男。
しかも、人を挑発するかのようににやりと笑うとは何事だ!
ポケットに手を突っ込んだまま、上手そうにもぐもぐとパンを食いやがって。
俺の…俺の一週間の楽しみをよくも邪魔しやがったな!
「…」
楽しみにしていただけに、
そして後少しで手が届きそうだっただけに、どうにもこうにも俺は悔しくて堪らない。
「きさま…名を名乗れ!」
なので、俺はカレーパンを咥えているその男にそう叫んだ。
すると、
「早乙女乱馬」
男はカレーパンを口から取り出し、堂々と、しかも爽やかな笑顔で俺に名を名乗った。
そして、金を払いに行くべく、再びカレーパンを咥えて鼻歌を口ずさみながら俺の目の前から消えていった。
…何て余裕のある男だ。
そう思うと、更に俺の怒りは収まらない。
しかも、脚力にもジャンプ力にもスピードにも自信がある俺を、軽々と押さえつけてのさの爽やか。
楽しみにしていたぶん、俺の気持ちはどうにもこうにも収まらないのだ。
「早乙女乱馬、カレーパンの恨み、忘れんぞ!」
俺は、うっすらと目に悔し涙を浮かべながら、去っていった早乙女乱馬の楽しそうな背中を睨み、そう叫んだのだった。
こうして俺は、将来宿命のライバルとなる早乙女乱馬と、出会った。
そしてこのカレーパンを奪われたこの日が、乱馬と俺の戦いの始まりだった。