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メッセージ
…ずっと、あかねに言いたい言葉があった。
ずっとずっと言いたくて仕方がなかったはずなのに、いつの間にか忘れてしまって、伝えられなかった大切な言葉。
もしもあの時、直ぐに彼女が目を覚ましていたのなら。
乱馬は真っ先に、彼女にこの言葉を伝えた。
「ありがとう」
…そんな言葉を。
他の言葉なんて、思いつかない。
何よりも、どんな言葉よりも先に。
身体を労う言葉よりも先に、この言葉を伝えたかった。
…命を張って、自分を助けてくれてありがとう、と。
そして、
再び目を覚ましてくれて、ありがとう。
生き返ってくれてありがとう。
また自分の元に戻ってきてくれてありがとう。
幾千、幾億の言葉の中でただ一つ、この言葉を選んで伝えようと思っていた。
「ありがとう」
そんなささやかな言葉を。
…
「ああ…」
…背後で、空を突き抜けるような勢いで沸き出づる呪泉の水柱。
空まで飛び出しては、やがて勢いを無くして地へと戻る。
地上にいる者を容赦なく叩きつけるようなその水は、雨というよりはもはや滝。
雨は大地へと恵みをもたらすというが、一体この呪泉の水の「雨」は何をもたらすというのか。
空へと舞い上がり、そして地へと降り落ちたその水は、大地に細々と咲いていた幾つもの花を、容赦なくその水圧で押しつぶして根こそぎ流してしまった。
地面を流れる水に浮かぶ、押しつぶされた花びら。
幾重にも重なり、そして遠くへ、遠くへと流れていくそれら…それは、恵みの雨も時には脅威なものであるということの証明だというのだろうか。
「…」
…そんな、呪泉の水柱と雨が降る中。
その水を浴びて女の姿になったままのらんまは、ただそこへ立ち尽くしていた。
そのらんまの腕の中には、あかね。
一糸纏わぬ姿のあかねは、目も開けず、そして呼吸をすることもなくらんまの腕の中で眠っていた。
抱いているのに、体温を感じられない。
直接肌に手を触れて抱き上げているのに、ずっとずっと触れているのに…徐々にあかねの身体は冷たくなっていく。
息をしていない、あかね。
冷たくなっていく、あかね。
そして…決して動く事のない、あかね。
「…」
それが、一体どういうことなのか。
そんなこと、らんまにだって分かりきっている事であった。
でも、どうしても。
どうしてもその「事実」を、らんまは簡単に認めてしまいたくはなかった。
らんまの中には、そんな事実は決して必要ではない。
必要ではないし、必要にしたくもない。
…でも、それは「事実」であり「真実」である。
それはどうしても受け止めなくてはいけない「真実」であった。
…呪泉の水に浸かっても、
体一杯にその水を浴びても、あかねは息を吹き返さなかった。
目を、開けてはくれなかった。
そう、全てが遅すぎた。
…あかねの時間が、止まってしまった。
たった、十六歳で。
こんな、中国の山奥で。
一糸も纏わぬ姿で。そして…らんまを、身体を張って助けようとして飛び込んで、人形になってしまった事が原因と
なって。
呪泉の水をお互い守るべく、乱馬達呪泉郷利用者と、この近隣に住む「鳳凰山」の住民とが戦いをした。
その最中、乱馬のピンチを助けようとしたあかねが、自らの命をかけてその身を投じ、乱馬は事なきを得たものの、あかねは身体中の水分を奪われて「人形」のようになってしまうような事態に陥った。
そんなあかねを助ける為には、呪泉の水にその身体をつけさせることが必要。
乱馬は、呪泉の水を取り戻しあかねの命を救うべく、鳳凰山の住民と戦った。
そして、激闘の末ようやくその水を取り戻しあかねの身体をその水につけるも…時、既に遅し。
あかねは目を開くことなく、ぐったりとした様子でらんまの腕の中で眠リ続けたままだった。
「…なあ、良牙。あかねの奴、すげえ器用なんだよ。眠ってるくせにさ、息止めてんだぜ?すげえよな」
らんまは、あかねの身体を抱いたまま、湧き上がる呪泉の水柱から少し遠い場所に立っている一同…良牙・シャン
プー・ムース・呪泉郷ガイド・ガイドの娘・プラム、そしてパンダ姿の玄馬の元へと歩いていった。
そして、ぼーっとした様子で、歩み寄る自分達を見ていた良牙に向ってそういって笑った。
「…らんま」
良牙は、そんならんまの姿を見て不意に涙をこぼした。
「何泣いてんだよ、おめー。そうか、おめー怪我でもしてんのか。男のクセに何泣いてんだよ。そんな姿あかねが見た
ら、あきれ返っちまうぜ」
らんまは、そんな良牙に対して無理やり笑って見せた。
「らんま」
良牙がそのらんまの顔を驚いた表情で見ると、
「ほら、早く涙とか拭いちまえよ。あかね、そろそろ目を覚ますぜ?」
らんまは良牙の問いかけには一切答えずに、強引に会話を進めていく。
しかしその表情は、笑っているもののどことなく表情は引きつっている。
目は澱み、その目線はあかねにしか注がれてはいなかった。
良牙と話をしているのに、良牙に視線を向ける事はない。
ただ、あかねだけをみて無理に笑顔を作ろうとしていた。
それが、良牙たちには痛々しく思えてならなかった。
更にらんまは、
「あ、それよりよー、プラム。女もんの服、ねえか?あかねが起きたら、裸だと恥かしがると困るからよ、悪いけど用意
してくれよ」
といって、プラムにまでそんなことを言う始末だ。
「お客さん…」
「いつまでも裸だと風邪引くと困るし…こいつ以外に寒がりなんだよ。なあ、頼むよプラム」
「お客さん…」
プラムがその返答に困り、良牙や、父のガイドを交互に見る。
「…らんま。あかねさんはもう…」
そんなプラムの視線や、そしてらんまの行動に耐えられなくなった良牙は、
一方的に皆に問い掛けているらんまに向ってそう諭そうとしたが、
「あかね、今プラムが服を持ってきてくれるってさ」
らんまは、良牙の事を無視してずっと、ずっと腕の中のあかねに話し掛けていた。
動く事のない、あかねの顔に向ってずっと話し掛けている。
「…」
そんならんまの様子に、良牙も、そしてプラムも。
いや、その場にいた全員、もはや声などかける事など出来なかった。
突然訪れた、大切なものの死。
隣にいるのが当たり前だった、人。
一緒にいるのが当たり前だと、信じて疑わなかった人。
そして、共にずっと、同じ道を歩いていこうと。
そんな約束はあえて言葉にしなくとも、絶対に心だけは溶け合っていた人。
…そんなかけがえのない人の死を、彼女…いや彼は簡単に受け入れることなど出来ないのだ。
良牙たちであったって、そうだ。
今まで共に時を過ごしたあかねの、このような瞬間を…簡単には受け入れることが出来ない。
らんまにしてみればそれは、なお更の事。
大切であればある程、その存在が大きければ大きいほど。
…この事実を受け止めるには、長い時間が必要なのだ。
「あかね…。だから、もう起きていいんだぞ」
らんまは、皆に背を向けもう一度…自分の腕の中でどんどん冷たくなっていくあかねに向って声をかけた。
ただでさえ白い肌が、更に青白くなったあかねに向って再び声をかけた。
これは夢なのではないか。
そうだ。自分は悪い夢を見ているのだ。
…らんまは何度も、自分にそう言い聞かせた。
そう思うことで、目の前に突きつけられた事実から目を逸らそうとしていたのだ。
だから、何度も手をつねってみた。
何度も、唇を噛んでみた。
何度も、自分の顔を拳で殴ってみた。
しかし…自分の身体を何度も痛めつけようとも、
腕の中にいるあかねの身体の温度は、非常なくらい下がっていく。
話し掛ければかけるほど、認めたくなくてあがこうとすればするほど、残酷なくらいにらんまは…その事実を認めざる得ない状況へと追いやられていくのであった。
…と、その時だった。
「…ほら」
不意に、良牙がらんまに向ってやかんを差し出した。
「何だよ、良牙」
らんまが引きつった笑顔を浮かべながら良牙に問うと、
「…いいから」
良牙は、らんまに向ってやかんを更に突き出す。
らんまは、そのやかんを受け取ろうとはせず、やかんから目をそらして再びあかねに目を落とす。
「…」
良牙は、そんならんまの姿に居たたまれない思いで胸も痛むが、ここで自分も砕けてしまっては…どうにもならない。
「…いつまでも女の姿じゃ、あかねさんが可哀相だろ」
良牙は、意を決してそう呟くと、いつまでもやかんを受け取らないらんまの頭にとぽとぽとぽ…とやかんを傾けてお
湯をかけた。
「…」
その瞬間、湯煙と共にらんまの小さな体が一回り、むくむくっと大きく変化した。
小さな体があかねを抱いていた時と違って、お湯をかぶって男の姿に戻った乱馬があかねを抱いているその姿は、よく鍛え上げられたしっかりとした腕で、小さなあかねをすっぽりとその腕に収めている。
「…」
男の姿に戻った乱馬は、何も声を発さぬまま、腕の中のあかねの身体をぎゅっ…と強く抱きしめた。
何も言わず、ただその腕に力を込めて。
あかねの体が、その乱馬の力のせいで少し後ろにしなった。
そのしなったあかねの首筋に、乱馬は何も言わぬままそっと、顔を埋めた。
「…」
そんな乱馬の姿を見守っていた良牙も、そして他の皆も。
しばらくそんな乱馬に対して何も、声をかけることができなかった。
…言葉とは、なんと難しいのだろう。
そんな思いが、乱馬とあかねを見守る一同の胸には満ち溢れていた。
自分達が知っている、幾千、幾億の言葉。
そのどの言葉を使えば、
彼の心は癒せるのか。彼の気持ちは晴れるのか。
どの言葉を使えば…事実を彼に受け入れさせることが出来るというのだろうか。
「…」
不用意に、声などかけることなど出来なかった。
いや、何をどうかければよいのか。
それを考えるほど一同とて、冷静ではない。
…
「…最後のお別れだ。ゆっくりと二人で話すがいい」
「…私たちは、先に小屋に戻っているある」
…乱馬の気持ちを察し、一同はそう声をかけてそのまま、その場から離れた。
「…」
一人残された乱馬は、あかねを腕に抱いたままふらふらと、歩き始めた。
いつの間にか乱馬のにの腕には、先ほど良牙が持っていたはずのやかんが、掛けられていた。
それをいつ、どうやって受け取ったのか。乱馬はよく覚えていなかった。
すでに男の姿に戻っているのだから、やかんなど不必要。
だったら地面に置けばよい。
そんな理屈は百も承知だが、
そんな理屈が思い浮かばないほど、乱馬は今、冷静な状況ではないのだ。
フラフラと歩いているその目的地さえも、定まってはいない。
歩くというより、彷徨っているというのか。
とにかく乱馬は、あかねを腕に抱いたまま歩を進めていた。
歩を進めながら、乱馬はあかねに対して話したかったことをずっと、ずっと考えていた。
乱馬には、あかねに言ってやりたい事がたくさんあった。
中国に渡ってちょっとした頃、落盤に巻き込まれた乱馬は瓦礫の下でふと、日本に残してきたあかねの事を思い出し
た。
『日本に帰って、また喧嘩がしたい』
…しきりにそう思った。
だから、
「すっげえくだらない喧嘩、またしような」
次にあかねに会った時は、そんなことを言ってやろうとずっと思っていた。
それから。
あかねが、鳳凰山の住人の手によって中国へと連れてこられた事を知った時にも。
『無理やりつれてこられて、怪我とかしていないだろうか。』
それが心配でならなかった。
「ま、おめーみたいな頑丈な女、ちょっとやそっとじゃくたばらねえとは思うけど」
心配しているがその言葉は裏腹。
でも、言葉は悪いがそういって、やがて無事な姿で対面したあかねにそういってやろうと。
乱馬はずっと思っていた。
…そして。
絶体絶命のピンチに陥った乱馬の為に、自らの命を賭けて危険な状況に飛び込み物言わぬ人形となってしまったあ
かねに。
そんなあかねを呪泉の水につけて、元通りに戻った時には。
『…ありがとう。』
絶対にそういってやろうと、思っていた。
あかねに負けず劣らず素直でない乱馬が、素直に、そして正直に。
絶対にそう伝えようと思っていた言葉だった。
「無事でよかった」
「元通りになってよかった」
…そんなたくさんの言葉よりもまず先に、
自分の命を助けてくれて、ありがとう。
そして、
…生き返ってくれて、本当にありがとう。
ありがとう。
「…」
乱馬は、そう伝えたいと思っていたのだ。
御礼を言いたかった。
あかねに救われたこの命のお礼と、
そして…再び自分の隣で笑ってくれる、その位置に戻ってきてくれたお礼。
また再び、共に居れる…その世界へ戻ってきてくれたお礼を言いたかった。
他の言葉なんて何も、思いつかなかった。
ただその言葉を、真っ先に伝えたかった。
それを伝える為なら、どんなことでも身を尽くそう。
…そう思っていた。
「…なのに、何だよこれは」
…フラフラと彷徨っていた乱馬は、ようやく立ち止まってそして…そう呟いた。
乱馬は、改めてあかねの顔を見つめた。
皆と別れたときよりもさらに、青白くなっているあかねの顔。
そんなあかねの顔を見つめながら、乱馬は口を開いた。
「…」
言葉を発しようとした。
発したかった。
何か、声をかけようと思った。
いや、贅沢は言わない。
名を呼びたかった。
返事をしてくれなくてもいいから、ただ、愛しい人の名を呼びたかった。
『あかね』
…たったその三文字の名を、呼びたかった。
「…ああ…」
…しかし、それさえも叶わなかった。
声が震える。
いや、心が震えて声が出てこないのだ。
「ああ…」
乱馬は、再び腕に抱き上げたあかねの身体をぎゅっと強く抱きしめそして…顔を伏せた。
伏せた顔の閉じられた目から、熱い水が溢れ出した。
涙。
それは乱馬にも分かっていた。
男が泣くなんて情けないことあるか…普段から自分にそう言い聞かせている乱馬ではあるが、
この中国に来てから、その誓いも悉く破られつつある。
あかねが自分を助ける為人形になってしまったあの時。
初めそれを知らなくて、あのままあかねを失ってしまったと思い込んだ乱馬はやはり、人目も気にせず涙を流して泣
いていた。
そして、今も。
「やだ、乱馬。何泣いてるのよ」
…願わくば、こんな自分にあかねからそう声をかけて欲しい。
そんなことを願いながら乱馬は涙を流すも、
「…」
もちろんあかねがそんなことを呟くはずもなく。
「…」
顔を伏せる乱馬の腕の中では、さらに身体を冷たくしていくあかねが静かに、眠っているだけであった。
…そんな二人の背後では、ただただゴウゴウと音を立てて、呪泉の水柱が噴出しつづけていた。
乱馬は、その水柱の轟音に紛れるように…泣いた。
天を仰ぎ、声をあげて。
なんと叫んでいるのかわからない言葉を、ただ叫んで泣いた。
そんな声は、いとも簡単に水柱の轟音に飲み込まれ、自分自身の耳にさえもそれがどのくらいの声の大きさなのか
分からないほどであった。
でも、止まらなかった。
泣くのをやめようと自分に言い聞かせようとするも、感情が次から次へと溢れ出してくるのだ。
…そんな今の自分の感情を、乱馬自身でさえもコントロールする事が出来なかった。
乱馬の泣き声など簡単に飲み込んでしまうその轟音の轟く中、乱馬はあかねを腕に抱いたまま、ずっと…その場に立ち尽くしていた。
…
「乱馬っ…乱馬!」
…と、その時だった。
不意に遠くで乱馬を呼ぶ声がした。
「!?」
目の前のあかねは、何も言葉を発しないのにその声は…あかねに似ている気がした。
慌てて乱馬が顔を上げると、
「っ…」
…次の瞬間、それまで呪泉の水柱を背に立っていたはずの乱馬であったが、
その周りの景色が不意に、消えた。
その代り、乱馬の目に飛び込んできたのは…どこかの部屋の天井だった。
「あ…?」
そのほかには、一体何がある?
乱馬がそんなことを思いながら、もっと気をつけるように周りに目をやると、
薄暗い闇の中に、ぼんやりと。洋服ケースや、勉強机。大き目の本棚に、女物の衣服。
そして…
「…乱馬?どうしたの?」
…直ぐ隣には、やはり先ほど同じように、一糸纏わぬ姿のままのあかね。
ただし先ほどと違うのは、
さっきまでは乱馬の腕の中で、呼吸も止まり冷たくなっていくだけだったあかねだったが、今こうして乱馬の隣にいて乱馬を見ているのは、
「すごい汗…魘されてたみたいだったけど…」
はっきりと自分の意志で動いていて、そして自分の意志で言葉を発する、あかねであった。
「…」
…そう。
乱馬は、夢を見ていたのだ。
今より少し前の、「あの時」の夢を。
中国・呪泉洞での戦いの直後の、夢を。
あかねが息を吹き返すまでの間の、あの忌まわしい時間の夢を。
…地獄に落ちる事よりも辛いと思った、そう、その身を心ごとズタズタに引き裂かれてしまうのではないかと思った、「あの時」の夢を。
…
「っ…」
乱馬は、それに気が付いた瞬間、突如隣にいたあかねに思い切り、抱き付いた。
「ら、乱馬!?」
いきなり乱馬に抱きしめられたあかねは、驚いたような声をあげる。
「…」
乱馬は、何も言葉を発しないまま、直にあかねの肌を抱きしめた。
「んっ…く、苦しい…」
徐々にあかねがそういいながら、呼吸を乱し始めても、乱馬はあかねを離す事はなかった。
あかねの背中が、少し弓形にしなっても、抱きしめているその部分に、うっすらと汗がにじみ始めても。
乱馬は、あかねの身体を離さなかった。
「…乱馬、どうしたの?」
その内、乱馬のただならぬ様子に気が付いたあかねが、自分を抱きしめて離れない乱馬の頭を優しく撫でてやると、
「…夢を見た」
「え?」
「中国で…」
「え?」
「あかねが目を覚ますまでの、長くて嫌な時間の…夢を見た」
乱馬はそういって、ようやくあかねの身体を、離した。
「…どんな夢だったの?」
あかねが、自分の身体を離した乱馬の頬に手を触れながらそう尋ねると、
「…」
乱馬は、先ほど見た夢…それさえも口にするのが嫌なのか、ただ首を左右に振るばかりであった。
「…それじゃ、また見ちゃうかもしれないよ?」
あかねが、汗ばんだ乱馬の手をきゅっと握りながら心配そうに呟くと、
「…こっち」
「え?」
「…あかね、こっち来て」
乱馬はそういって、あかねの手首を掴んで自分胸元へと強引に引き寄せた。
あかねは、そんな乱馬の様子に戸惑いを見せながらも、引き寄せられるままに、その身体を乱馬へと預ける。
あかねが一糸纏わぬ姿であるのと同じように、乱馬も同じ姿をしていた。
あかねを引き寄せるという事は、お互いの肌と肌が直接触れ合って、そして体温を感じあうという事だ。
絹のように滑らかな肌と、じわりじわりと伝わってくる、体温。
乱馬は、自分の腕の中でじっと、自分に抱きついているあかねの身体に触れながら、先ほど見た夢の中では味わう事が出来なかった彼女の「体温」を味わった。
…何であんな夢を見たのか。
自分でも良くわからなかった。
でも、あの時の夢を見たのは、今日が初めてではなかった。
実際にあの後、あかねは目を覚まして、皆と一緒に日本へと帰ってきた。
そして今。
思いを伝え合った今、こうして自分の隣にいる。
一糸纏わぬ姿という事は、その前にそれなりの行為を行っていたからそんな姿なのであって。
以前に比べて、遥かに…身体も心も、お互いはお互いをよく重ねるようになったはずであった。
「…」
それなのに、何故なのだろうか。
乱馬は、ひたすらそれを考えてみた。
そして、考えて考えて…考えた結果、ある一つの結論にたどり着いたのだった。
「…まだ、言ってないんだ」
「は?」
「あの時、一番言いたかった言葉を、結局言ってなかったんだ」
乱馬はそう呟いて、あかねの身体をそっと離した。
「言ってないって?何が」
あたしを好きだって言葉なら、別の時に聞いたじゃない。
あかねが乱馬にそう答えると、
「そうじゃねえよ。もっと別の、大切な言葉」
乱馬はそういって、一度大きく深呼吸をした。
…そう。
結局あの時。
あかねに思いをぶつけようと一人、動かなくなっていたあかねに泣きながら語りかけていた乱馬であったが、
あかねが息を吹き返した事により、
その嬉しさと、それまでの自分に対しての気恥ずかしさでパニック状態に陥り、その時色々と思っていたことが一瞬
でパアっと散ってしまったのだ。
「あかねさんっ」
「しぶとい女ね」
そうこうしているうちに、乱馬達の元へ先にガイド小屋へと戻っていたはずの良牙やシャンプーたちも戻ってきてしまっ
て、
そしてそれ以降日本に帰ってくるまでも、
何だか気恥ずかしい気持ちが先に立ってしまい、あの時本当に言いたかった言葉を、すっかりおざなりにしてしまっ
ていたのだ。
その後、
自分があかねを「好きだ」という気持ちはどうにか伝える事が出来たものの、
よくよく考えれば、それ以外であかねに伝えたかった「言葉」は、すっかりと忘れてしまっていたのだ。
「…なあ、あかね」
乱馬は、自分を心配そうに見つめているあかねの手を、そっと掴んだ。
「乱馬?」
あかねが、そんな乱馬の手に、そっと自分のもう片方の手を添える。
「…」
乱馬は、その手も包むように自分のもう片方の手を添えると、
「…ありがとうな」
と、小さな声であかねに礼を述べた。
「な、何で乱馬があたしに御礼を言うのよ。魘されてる乱馬を心配して声をかけるのなんて、当然のことじゃない
の…」
あかねは、乱馬の突然の礼に戸惑っているようであったが、
「違うよ、そのことじゃなくて」
「え?」
「もっと別の事」
乱馬はもう一度大きく深呼吸をすると、自分が先ほどまで見ていた夢の話をあかねにして聞かせた。
もっとも、話したのは夢の概要だけであり、どうしてお礼を言いたかったかは、伝えなかったのだが。
そして、
「…ずっと言ってなかった。一番いいたかったはずなのに」
そう言うと、あかねの身体を少し引き寄せて、あかねの首筋にそっと頭をもたげた。
「水臭いわねー、お礼なんて。だって、乱馬がもしもあたしだったとしても、同じように敵の前に飛び出して身体を張っ
たでしょ?」
もちろん鈍いあかねが、その「お礼」の本当の意味など気が付くはずもなく、
「お互い様でしょ」
自らの命を賭して、乱馬を助けた事。
そのお礼など必要ないわ…そんなことを言いながら笑っている。
もちろん、乱馬の「ありがとう」はそれだけの意味ではないのだが、
「それだけじゃねえよ、お礼を言ったのは」
「え?じゃあ何よ」
「他にも、いろいろあんの」
…でも、それに気がつかないのも何だかやっぱり、あかねらしいというか。
「とにかく、ちゃんと言ったからな。きっと、これでもう妙な夢はみねえだろ」
「何それ」
「何でも。さ、それじゃさっきの続きでも…」
乱馬は適当に話を誤魔化すと、そのままあかねの身体を蒲団へと倒した。
「何よっ調子がいいんだからっ」
あかねはそんなことを言いながらも、恥かしそうに小さく笑って、
乱馬の首にそっと腕を回しながら目を閉じる。
乱馬はそんなあかねに軽く一度キスをすると、
「…しょーがねえだろ。嬉しくてしかたねえんだから」
「え?」
「…ありがとな、あかね」
もう一度あかねに礼を述べて、ゆっくりとあかねに唇を重ねた。
…ずっと、あかねに言いたい言葉があった。
ずっとずっと言いたくて仕方がなかったはずなのに、いつの間にか忘れてしまって、伝えられなかった大切な言葉。
もしもあの時、直ぐに彼女が目を覚ましていたのなら。
乱馬は真っ先に、彼女にこの言葉を伝えた。
「ありがとう」
…そんな言葉を。
他の言葉なんて、思いつかない。
何よりも、どんな言葉よりも先に。
身体を労う言葉よりも先に、この言葉を伝えたかった。
…命を張って、自分を助けてくれてありがとう、と。
そして、
再び目を覚ましてくれて、ありがとう。
生き返ってくれてありがとう。
また自分の元に戻ってきてくれてありがとう。
幾千、幾億の言葉の中でただ一つ、この言葉を選んで伝えようと思っていた。
「ありがとう」
そんなささやかな言葉を。
その言葉を、ようやく今…伝える事ができた。
随分と遅くなってしまったけれど、乱馬はしっかりと伝えることが出来たのだ。
…命を張って、自分を助けてくれてありがとう。
生き返ってくれて、ありがとう。
そして…再び自分の隣で、笑っていてくれてありがとう、と。
…
「…」
それから、数時間たって。
乱馬は、自分の腕の中で健やかな寝息を立てて眠っているあかねの耳元でもう一度、そう呟いた。
その瞬間、
「…」
なぜか、あかねの顔が少しだけ嬉しそうに…表情を緩めたような気がした。
その笑顔を見て、乱馬の心は何だかとても温かくなった。
「…」
…もしかしたら、ようやくその言葉の本当の意味に気が付いたのかな。
そう思うと少し気恥ずかしさも出てくる乱馬であったが、
「…こちらこそ」
その時ふと、本当の寝言なのか、どうなのか。
あかねが不意に、そう答えた。
「…」
それがあまりにもいいタイミングなので少々驚いてはしまったが、
乱馬はそんなあかねに軽くキスをすると、再びあかねの身体を抱きしめるようにして眠りについた。
