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→思う事

「早乙女さーん。どうぞー」


平日午前中の、病院受付。
問診患者さんもまばらな、とある病院受付前のロビーに、若い看護師の声が響く。
時折胸にぐっくる、折からの薬の匂い。それに、寒くないように…と必要以上に配慮されて暖められた院内。
それに加えて、「個人病院」というのもあってか、院長の趣味なのかなんなのか。心地の良い音楽が流れている。
床は、ぴかぴかに磨かれているフローリング。
受付前の待合所に置いてあるソファも、窓にかかっているレースのカーテンも、色は薄いピンク。
匂いさえなかったら、ここが病院だという事を忘れてしまいそうな…錯覚。
自分の部屋よりもある意味、居心地が良く感じるのも無理は無い。

…ここは、天道家に程近い場所にある、産婦人科医院。
最近内装工事をしたせいで中はとても近代的で綺麗になっているが、この病院自体はずっとずっと、この町で長く開業されている。
父の早雲曰く、この病院で天道家の三人娘は取り上げられた、との事。
なので、実際にあかねがこの病院にかかる事になったとき、
「母さーん!天国で見ているかい?母さんがあかねを生んだあの病院で、今度はあかねが子供をっ…」
…夜、そんな風に言葉を詰まらせて涙ぐみながら、早雲が今は亡き妻の仏壇に話し掛けていたその姿を、
「…お父さんたら」
と、あかねは何だか胸を打たれながらこっそりと覗いていたのを、覚えている。
「…」
でも。
よくよく考えて見ると、それも不思議な事だなあ。…あかねは、ふとそんな事を思った。
同時に、まだ洋服の上からだとはっきりと分からないけれど、でも確実にそのお腹の中では芽生えている「小さな命」を手でゆっくりと撫でてみる。
「…」
少しだけ、以前よりも膨らみ始めたお腹。
妊娠した事が発覚してからまだ2週間。端から見たらそんなに分からないけれど、
「確実だっ。ここには俺のっ…」
「あんたねえ…」
「楽しみだよなあ」
どこからそんな知識を仕入れてきたのか分からないけれど、乱馬はあかねの腹に大きな手をそっと当てては、
「ヒーリングヒーリング。俺の力を分けてやろうー」
とか何とか言いながら、嬉しそうに撫でたり、する。
「狼が生まれたら困るでしょ」
「パンダよりはましだ」
まだ動いているかどうかなんて分からないのに、そっとお腹に耳を当てたりもする。
…家族の中の誰よりも、乱馬が一番喜んでいる事は、言うまでもない。
「…」
あかね自身、そんな風な姿の乱馬を見てもまだ、「自分が母親になる」…そういう意識は低いのだが、
それでも、こうして一人、産婦人科の診療にやってきているのだから、いい加減それも自覚しないと困る。
異常な心配性に徹する乱馬のせいで、まだ妊娠4ヶ月だというのにワンピースしか着せてもらえない生活にも慣れてはいない状況ではあるのだが。

「あの乱馬が、父親だもんなあ…。あたしが母親ってのも、うん…やっぱまだ、実感沸かないなあ」
もう少し、お腹が大きくなってくれば徐々にわいて来るのかな。--あかねは、ふと、そんな言葉を呟く。
きっと、徐々に感じ始めるんだろうな。「小さな命」の「大きな鼓動」。
「…」
…元気な姿で、逢いたいね。
あかねは、そんな事を思いながらそっと、自分の腹を再びゆっくりと撫でた。
と、その時。
「早乙女さーん!早乙女さん、お手洗いかしら…って!あら、いるじゃないの」
「え?」
「え?じゃないでしょ。さっきから何度もお呼びしてたのにいらっしゃらないから」
…先程から、あかねの名を呼んでいたという看護師が、困ったような笑顔を浮かべながら、受付前のロビーで座っているあかねの元へと歩いてきた。
そういえば、「早乙女さん」とそんな声が聞こえたような…と、あかねは今更ながらはっとする。
「あ、や、やだすみません…」
あかねが慌てて頭を下げて立ち上がると、
「あー、ゆっくりでいいですよ、ゆっくりで。さ、中で先生もお待ちですよ?早乙女あかねさん」
看護師は笑顔であかねの肩に手を置くと、そのままあかねを診察室の中まで誘導していった。
直後、バタン、と診察室のドアが閉まり、その日のあかねの診察が始まった。

自分が妊娠した事よりも、乱馬が父親になることよりも、
…まずは、自分が「早乙女あかね」であることを忘れないようにしなくちゃいけないな。
「結婚」してから数ヶ月。新婚生活よりも、妊娠した事よりも、まずは、長年名乗ってきた名字が変った事。それに慣れるようにしなくては。

「うん、赤ちゃんの方は順調ですねー…」
「そうですか」
「おやおや、やっぱり赤ちゃんの事を思うと、女性は自然に優しい笑顔が出ますねえ」
「ふふ…そうですか」
でも、それだけじゃないんですけどね。
問診を受けながら、あかねはふとそんな事を思ってクスリ、と小さく微笑んだ。

 

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