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春先小紅

 

「あ…」

ビュオッ…
俺が窓を空けた瞬間、
ツンと鼻先を触る冷たい風と、まだ咲き誇るには少し早い、が、せっかちにも世に誕生してきてしまった桜の花びらが、部屋の中に舞い込んで来 た。

「ちょっと!せっかく髪の毛セットしたのにッ何てことすんのよ!」
「わ、悪い悪い…」
その風のせいで、かれこれ一時間もかけてブラッシングしていた髪が不本意に舞い上がり乱れ、
「邪魔するんだったら、玄関で待っててよ」
と、鏡の前で出かける準備をしていたあかねは、むぅッと頬をふくらませている。
「そ、そんなに怒るなよ」
そんなあかねに対し、慌てて窓を閉めながら、俺はただ謝るばかりだ。
「いい?今度邪魔したら、デート取やめちゃうからねッ」
「わかったって」
あかねは、更に追い撃ちをかけるように俺に釘をさすと、
「あー、もう」
とかなんとか。
あかねはぶちぶちと言いながら再び俺に背を向け、髪をてぐしで整えると、
「いいや、髪の毛はまた最後にやろうっと」
そんな事を言いながら今度は、小さなポーチを取り出しそして…中に入っていた口紅を一本取り出すと、
「…」
慣れない手つきで顔を引き締めながら、唇に紅を、ひきはじめた。
(…)
そんなあかねの様子を、少し離れたベッドのうえで眺めている俺は、
今度は邪魔をして怒らせないように、と気を使いつつ、何だか不思議な気分で…そんなあかねの姿を見つめていた。

化粧なんてしなくても、あかねは充分過ぎるほど可愛い。
白い肌に、きゅっと引き締まった割にふっくらとしたその唇には、
そう、紅なんてのせなくても充分と赤みを感じる。
本人だってそれはわかっているだろうし、周りとてそんなことは分かりきっていた。
でも、そのあかねが今、口紅をひいている。
そう、それは俺と一緒に今日、これから出掛ける為だけに、だ。

「…」
そう思うと、何だか顔がにやける。
「…何、ニヤニヤしてんの?」
と、その時。
鏡越しに挙動不審な俺の姿をみつけたあかねが、怪訝そうな顔で俺のほうを振り返った。
「…別に」
…まさか、「俺のために口紅つけてんのかとか思うと嬉しくってさ」なんて言えるはずもなく、
「何でもねえよ」
俺は、わざとそっぽを見て、自分のにやけた顔をあかねからそむける。
「変なの」
「変じゃねえよ。ほら、早く付けろよ」
「うるさいわね。言われなくても付けるわよ。口紅つけるの、今日で二回目なのよっ慣れてないんだからっ」
「はいはい」
あかねは、そんな俺に首を傾げつつも、再び俺に背を向けて、口紅と格闘し始めた。
(慣れてないからって、付け終わって振り返ったら口避け女…みたいなことだけはやめてくれよな)
いや、それも充分ありえるようなシチュエーションだ。
俺は苦笑いをしつつも再びあかねの背中をじっと見つめるが、
「…」
『口紅つけるの、今日で二回目なのよ』
その言葉をふと思い返したとき。
「…」
…ずっと前に、
やっぱりこうして鏡に向かうあかねの背中を見つめながら、口紅をつけている彼女を見ていた時の事を、俺は不意に思い出した。

…そうだ。
俺は前にもこうやって、あかねが鏡に向かって口紅をつけているその姿を、見つめていた事があった。
でもその時は、こんな風に嬉しくて、ウキウキソワソワした思いではなくて、
もっともっと、「別」な思いを抱ていた。
「…」
俺は、必死に口紅をひこうと格闘しているあかねの背中を見つめながら何故か、その時の事をぼんやりと思い返して いた。


そう、あれは今から一年くらい前のことだろうか。
「あー…またはみ出ちゃった。何で上手くいかないのかな」
…時折、背中まで降りた長い髪を左右に揺らしながら、鏡の前に座っているあかねが、そうため息をついた。
「いい加減諦めたらどうだ?」
そんなあかねに、俺が背後から声をかけると、
「余計なお世話よっ」
人のアドバイスにちっとも耳を貸そうとしないあかねは、はみ出した部分の口紅をティッシュで拭いながら叫ぶ。
「口紅ぐらい、もっとさっさとひけねえのかよ。鏡に向かい始めて一体どのくらいの時間が経ってると思ってんだ?」
もう、1時間だぞ、1時間…・と、俺が呆れたような表情を見せると、
「う、うるさいわねっ。念には念を入れてるのよっ。今まではリハーサルなのっ」
「口紅ひくのにリハーサルするヤツなんて、聞いたことねえよ」
「い、いいでしょ別に!さ、次が本番よっ」
あかねは俺に、「いーっ」と小憎たらしい顔をしてみせると、再び鏡に向かって、口紅をひき始めた。
…そう。
人一倍不器用なあかねは、口紅一つも満足にひく事が出来ない。
おかげで、あかねのその唇。
口紅をひいているから赤いのか、口紅をひくのに失敗して、それを拭う回数が多くて赤くなってきているのか。
…はっきり言って、定かではない。
「…ったく、不器用なくせに物好きな女」
躍起になって口紅をひこうとしているあかねに、俺はそんな風にぼやいてやった。
「あたしの勝手でしょ」
あかねは、口紅を慎重に、慎重にひきながらボソッと答え、
「・・今度こそは…」
なんて。
まるで、神頼みでもするかのような言葉を呟く始末だ。
(口紅ひくのに、神頼みするなんてヤツ聞いたことねえよ)
俺は、そんなことを考えながら、あかねの背中を見つめていた。
そして、何故あかねが、こんなにまで必死に口紅をひこうとしているのか。
その理由をふと思い出した時。
「…」
自分でも分からないが、何だか妙に胸がザワリと音を立てたような気がした。
…そう。
俺は知っている。
不器用なくせに、おまけに色気なんて微塵も無くて、化粧の「け」の字も普段は感じさせ無い様なあかねが、どうして口紅をひこうとし ているのかを。
「…」
それを思うと、正体不明の「痛み」が、胸に疼くのを感じた。

それは、その日の学校帰りのことだった。
「あ」
「あ…」
いつものように帰り道、喧嘩しながら歩いていた俺とあかね。
そんな俺達に、
「あら、二人ともお帰りなさい」
「かすみお姉ちゃん…」
「どっか出かけてたんですか?」
「ええ、高校時代のお友だちと遊びに行っていたのよ」
…普段家にいる時とは違って、見慣れない洒落た洋服に身を纏ったかすみさんが、声をかけてきた。
かすみさんは、ちょうど、小乃接骨院…つまり、東風先生のところから出てきたところだった。
「…お姉ちゃん、先生の所に寄っていたの?」
「ええ。出かけたついでに、お借りしていた本を返そうと思って」
かすみさんはそう言って、にっこりと微笑んだ。
「…」
そのかすみさんの背後を見ると、骨格標本をかちゃかちゃと動かしながら、東風先生が嬉しそうに立っているのが見 える。
「…もう、用はすんだの?」
その東風先生の姿をチラリと横目で捉えながら、あかねがかすみさんにそんな質問をする。
「ええ。本当は本を返しに来ただけだったんだけど、長居してしまって。そろそろ帰ろうと思っていたところだったの よ」
「そう…」
「東風先生って、本当に面白い方ねえ、あかね。『おや、今日はお化粧されてるんですか?おしろいですか?』なんて ね、骨格標本に向かってずっとお話されているのよ」
「へえ…」
「今日はお友達と会うので、お化粧しているんです。やっぱり分かりますか?って私が聞いたらね、『とってもお似合 いですよ。やあ、なんて肌が艶やかなんだ。口紅もお似合いです』って。赤いバラが差してある花瓶に向かって今度 はお話し始めたりして」
かすみさんは、くすっと笑った。
「…」
…その、かすみさんをじっと見ていたあかねの表情が、笑顔を装っていても、ピクリ、と動いたのを。
「…」
俺は、決して見逃さなかった。
「ホントだ。おねえちゃん、今日はお化粧しているんだね」
笑顔のままだけれど、どことなく表情が曇りだしたあかねが、かすみさんに言った。
「ええ。久しぶりにね」
かすみさんはさらりとそう答えると、あかねの手を繋いで、ゆっくりと道を歩きだした。
「…」
俺は、手を繋いで歩くあかねとかすみさんの後ろ姿を後ろから追いながら、ふと、考えた。
…そう、そうだった。
俺もあかねも、かすみさんが東風先生とのやり取りをした話を聞くまでは、かすみさんが外出用の洋服を身にまとっていた事は気が付いても、化粧をしている事までは気が付かなかった。
でも。
東風先生は、かすみさんが何も言わなくても、彼女が今日化粧をしている事に気が付いた。
「おねえちゃん、今日はとっても綺麗」
…あかねは、かすみさんと手を繋いで歩きながら、そんな事を言っては笑っていた。
でも、
「…」
その笑顔が、心の底から生まれているような物でない事ぐらい、俺にだってすぐに予想が出来た。
『また、無理して笑ってら。』
…あかねの姿を見ながら、俺はそんな事を思っていた。
「…意地っ張り」
だから、あかねに聴こえるようにぼそっと、そう呟いてやった。
「何よっ。またあたしの悪口言ったわねっ」
その直後、ゴンっ…とカバンを顔面に投げつけられて攻撃されても、それを撤回するような事はしなかった。
そして…それから家に帰って直ぐだった。
あかねが、鏡に向かって口紅をひき始めたのは。

「あれっ…またはみ出しちゃったっ」
…依然として、鏡の前でそんな事を言っては口紅を引き続ける、あかね。
『口紅をひいて、そしてそれを東風先生に気がついてもらいたい』
その背中からは、そんな思いがヒシヒシと伝わってくる。
きっと、
かすみさんが何も言わなくても、化粧をしていたことを東風先生が気がついたように、自分が何も言わなくても、口紅をひている事。それを、東風先生に気がついてもらいたい。
…あかねのそんな気持ちが、口になんて出さなくたって、俺にはわかった。
(…)
しかし。誰が何も言わなくとも、一時間以上も口紅をひくのに失敗していれば、その異様に赤くなった唇には先生でなくとも、誰かしら何かしら、気がつくのではないか?
「…」
教えてやったほうがいいのか。
俺は若干迷ったけれど、やはりそれを口に出すのは留まる。
それに…
「…」
その赤い唇を見なくとも。
いや、例えあかねが口紅をひくのに成功していたとしても、だ。
こうして俺に背中を向けて、必死に口紅をひいているあかねに対して俺は…今、「あること」だけを思っていた。
そんな事思うなんて、俺はすごく意地の悪いやつなのかもしれない。
思い続けるその瞬間でさえ、そう思った。
でも、分からない。
分からないけれど、こうして鏡に向かって必死に口紅をひいているあかねの背中を眺めている俺は…その背中に向 かって、心の中で叫んでいた。

…気がつくな。
気がつくな。
気がつくな。
頼む、先生。気がつかないでくれ。
かすみさんにそうしたように、あかねには…そんなこと言わないでくれ。
あかねが口紅をひている事、気がつかないでくれよ。
そんな事言われれば、単純なあかねはそれだけで、すげえ喜んじまうんだよ。
嬉しくて、すっげえ笑顔を見せるんだよ。
でも、直ぐにその後、また苦しくなるんだ。
苦しくって、そんで、それを誰にもいえないで一人で抱え込んでさ。

だから先生、頼むよ。
あかねにそんなこと、言わないでやってくれよ。

(なっ…俺、何考えてんだ!?)
…一体、どうしてそんな事を俺は思っているのか。
いくらあかねと普段からいがみ合ってるからって、意地が悪いにも程がある。
慌ててそう自分を戒めてみるも、
「…」
どんなに自分を戒めても、あかねの背中を見つめながら思うその気持ちは、どうしても拭えない。


…なんで?

「あっ…もう、また失敗しちゃった…」
「…」
「もー、きっと乱馬が見てるせいよっ。向こう向いててよねっ」
「…」
…俺は、尚も何度も何度も唇を拭いながら口紅を引き続けるあかねの背中を見つめながら、
その時にはいくら考えても辿り着けなかった「その理由」の正体を、必死に考えていたっけ。



「出来た!」
…と、その時だった。
ぼんやりと昔の事を思い出していた俺の耳に、あかねの嬉しそうなそんな声が飛び込んできた。
「…」
ハッと我に返った俺は、そんな声をあげたあかねの方を見ると、
「見てみてっ。ほらっ」
あかねが、嬉しそうに声をあげながら俺のほうを振り返った。
「ん?」
そんなあかねの唇をよく見ると、…手離しで綺麗、とはいえないけれど、
「…はは」
それなりにはみ出さずに、紅がひかれていた。
「前に口紅つけたときは、一時間以上も掛かったのになあ」
俺がそんな事をぼそっと呟くと、
「う、うるさいわねっあれはそう…練習よっ」
「あの時もそんなこと言ってたよな、そういえば」
「余計なお世話よっ」
あかねは、そんな俺に向かって、近くにあったティッシュの箱をブン、と投げつけてきた。
「おっと」
俺はその箱をさっと交わして手で受け取ると、
「…前の時は確か、一時間以上も掛けて口紅をひこうとしていたにも関わらず、結局上手くいかなくて、誰にも見せ に行く前に落としちまったんだよな」
そう言って、ゆっくりとあかねの前へと歩いていった。
…そう。
ずっと前にこうして、あかねが口紅をつけていたあの時。
俺の歪んだ願いが届いたのかどうかは分からないけれど、
結局あかねの奴、自分の思い描いたようには口紅がひけなくて…先生に気がついてもらううんぬんよりも、見せに行くこと自体を断念 してしまったのだ。

「可愛い?」
…でも、
俺がそんな事を考えていたなんてこと、露知らず。
歩み寄ってきた俺に向かってあかねはそう言って、無邪気な笑顔を見せた。
「…可愛い」
お世辞抜きでな、と、俺が素直にそう答えると、
「へへっ…」
あかねは、更に嬉しそうに笑って、俺を見た。
俺は、そんなあかねの頬にそっと手を当てると、
「…可愛い」
もう一度、そう呟いた。
「な、なによっ…そう何度も言われると、信じられなくなっちゃうよ」
あかねは、俺のその言葉に少し戸惑ったような表情を見せていたが、
「しょーがねーだろ。…ホントにそう思うんだから」
俺はそういうが早いか、そんなあかねの、紅をひいて赤味が差したその唇にそっと、キスをした。
「あっ…せっかく口紅つけたのにっ…」
慌てて唇を離し、あかねがそうぼやくも、
「いーだろ、またつければ」
「なっ…あんた、さっきから見てたでしょっ。口紅ひくのに、慣れてないんだからっ。それがどれだけ大変かっ…」
「いくらでも待つよ」
「こ、これから出かけるんでしょ?」
「出かけるよ」
「口紅つけて、出かけるんだからっ…もうっ」
そうやって言ってる傍から、また俺にキスされて、紅のひかれているその口紅と同じくらい、あかねは真っ赤な顔をしている。
「…ど、どうしたのよ?」
もちろんそれだけで留まらず、それからまた何度も、何度も俺にキスをされて。
顔だけでなく、ついには耳まで真っ赤にしたあかねが、いつの間にか抱きしめられている俺のその腕の中で、小さくぼやく。
「んー…?」
俺は、そんなあかねの、今度は額にちゅっ…と音を立てるようにキスをすると、
「だから。可愛いなと思って」
「うそ。それだけじゃないでしょ」
「そうだな…しいて言えば…」
そう言って、すっと…先ほどキスをした、あかねの額を指でツンと触れた。
「え?」
あかねがそんな俺の行動に「はて?」と首を傾げるので、
「…あかねが口紅をつけていることを、誰よりも先に俺が知って、そんで確認できた事が嬉しかったから…かも」
「はあ?」
「男ってのは、そーゆーもんなんだ」
俺はそう言って、ニッ…と笑った。
「?!」
あかねは、俺のその笑顔に何か不安を感じたのか、慌てた様子で、鏡の方を振り返った。
そして、
「あ!キスした唇で額にキスしたからっ…痕がっ…口紅が額にっ…」
そう叫んで、慌ててティッシュで額を拭うが、
「やんっ落ちないじゃないの!顔、洗ってこなくちゃ…もー!乱馬のバカ!」
そう簡単に落ちない事を悟り、バカバカバカ、と俺の身体をボコボコと殴った後、慌てて部屋を飛び出し洗面所へと向 って行った。
「ついでに風呂も入る?あ、なんなら一緒に入ろうか?」
俺が更にそんなあかねをからかうように背後から叫ぶと、
「バカ男ー!」
バコっ…と、あかねが履いていたスリッパを俺に投げつけてきて、それが見事に顔に命中した。
「てて…」
俺はそのスリッパをぶつけられた顔面をしかめつつも、
「…だって、しょーがねーだろ。それが本心なんだからよ」
…再びそんなことをぼやいて、小さく笑った。


昔は、ただひたすら「気がつくな」と。
あかねが口紅をひているその姿を、先生には気がついて欲しくない。
俺は、そう思っていた。
でも、今は…もう違う。
…先生。
東風先生。
あかねさ、今日、なんかいつもと違うように見えませんか?
今日はさ、いつもよりちょっと可愛く見えるだろ?
実はさ、先生。
コイツ、今日、ちょっとオメカシしてんだよ。
何でかって…そりゃ、決まってるだろ。

「…俺と一緒に、出掛ける為です」
…そう、それは。
俺にしか分からない、ちょっとした優越感。
勝手に、俺が感じているだけの、優越感。
でも、
…それゆえに、あかねがいつも以上に可愛く見えるのも、否めない。


…もしも今日、先生にばったりと出くわす事があったら。
何だか無性に、このことを伝えてみたい。
「…俺って、バカだよなあ」
…もちろんそんな事をは百も承知だけれど、
再びあかねが戻ってきて支度をするまでの間、それでも俺は、ぼんやりと。そんな事を考えていた。

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