その日の夜。
(言うべきか…言わないべきか)
夕方、公園でうっちゃんにキスされてしまったことをあかねに言うべきか、否か。
家に帰ってくるなり、俺は一人道場に篭って、そんな事を考えていた。
うっちゃんは自分からベラベラとそんな事を喋るタイプじゃないし、勿論俺だって、そうだ。
だから、二人して黙っていれば、あの公園での事は、あかねにはわからない事なのかもしれない。
でも…そんな風に、あかねに秘密をもって過ごしていくのは嫌だった。
かといって、それをあかねに伝えれば、
「何よ!隙が多いのよ!バカ!」
あかねは、そんな風に激怒するだろうということも、簡単に予想はつく。
あかねを怒らせたり喧嘩をしたりするのは嫌だけれど、だからといって、このまま黙っているのも何だか気が引けた。
(うー…どうすっかなあ…)
俺は、そんなことをさっきからうじうじと数時間、一人考えていた。
…と、その時だった。
「乱馬」
不意に、俺を呼ぶ声がした。
俺がその声の方を振り返ると、
「乱馬、どうしたの?さっきから道場にこもっちゃって」
そんな俺に向かって、あかねが道場の入り口から笑いかけていた。
「あかね…」
…それまであかねの事を考えていただけに、俺が思わずドキリ、と胸を鼓動させると、
「何よー、その顔は。こうして来たら、いけなかったの?」
あかねは少し頬を膨らませながら、俺の傍まで歩み寄ってきた。
そして、
「あのね…」
ボーっと立っていた俺の腕にちょっと寄りかかるようにしがみつくと、
「あのね、お願いがあるの」
あかねはそう言って、ちょっと恥かしそうな顔をして俺を見上げた。
「え…な、何?」
その顔が、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも可愛くて。
俺は思わず、寄りかかってきたあかねの頭を自分の方へと引き寄せて頬を寄せてしまう。
「うん…あのね」
あかねは、そんな俺に素直に頭を抱き寄せられたまま、
「あのね…学園祭でうちのクラス、三日間、喫茶店やるでしょ?」
「うん」
「それ、だいたい三時くらいまでなんだって」
「うん」
「だからね、それが終わったら…一緒に学園祭、見て回ろう」
と、言った。
「いいけど」
俺が素直にそう答えると、
「ホント?じゃあ、二日目のお店閉めた後、一緒に回ろうね」
あかねはそう言って、俺の腕に嬉しそうにしがみついた。
「えっ…二日目!?い、一日目じゃなくて!?」
…てっきり一日目だと思っていた俺が慌ててそう反応すると、
「うん、だって一日目はお店閉めた後、クラスの皆で教室でちょっとしたパーティするでしょ?だから二日目…え?
ど、どうしたの?」
「あ、いや二日目はちょっと…」
「え?」
「ちょっと用事が…」
「…」
あかねは、不思議そうな顔をしながら、俺の腕を離し、俺から離れた。
(二日目って言ったら、うっちゃんと約束した日じゃねえかっ…)
あかねにそれも伝えようかどうしようか迷っていただけに、俺は思わず胸をドキドキと鼓動させてしまう。
「用事って?」
もちろん、そんな事を知らないあかねが、俺に無邪気にそう尋ねるので、
「あの…その…ほ、他のクラスの奴らに、手伝い頼まれてて…」
…その時。俺は、あかねにとっさに嘘をついてしまった。
もしこの時、
「実はさ、今日の夕方うッちゃんに呼び出されて…」
と、本当の事を洗いざらい話していれば、後々ややこしい事にはならなかったはずなのに。
自分の気持ちに、後ろめたい所は何も無い。
無いはずなのに俺は…嘘をついた。
もちろん、
「何だあ、もう予定入れちゃったのか…じゃ、しょうがないね」
そんな事を夢にも思わないあかねは、俺の咄嗟の嘘を信じ、少しがっかりしたような表情をした。
「ご、ごめん…」
俺がそんなあかねの表情に少し胸をいためつつ、ボソッと謝ると、
「でも、予定があるんじゃ仕方ないよ。分かった」
あかねは、残念そうな顔で、それでも「仕方ないね」と、俺の言葉を何の疑いも無く信じ、そのまま道場を出て行こうと
した。
(あっ…)
そんなあかねの姿に、俺は何だかシク…と胸が軋んだ。
そして、
「あっ…あのさっ…」
「え?」
「あのっ…一日目じゃ…だめかなっ…」
慌ててあかねにそう提案するも、
「あのね、二日目の午後に、ちょっと面白いイベントがあったから、乱馬と一緒に行きたいなって思っただけなのよ。一日目じゃそれ、やってないし…用事があるなら仕方ないよ。さゆり達でも誘って、行く事にするわ」
あかねは逆に、俺に気を使うように笑いながらそう言った。
「…」
…そういえば、うっちゃんも俺を誘う時、「二日目に面白いものがある」と言っていたっけ。
「…」
うっちゃんが楽しみにしているように、あかねもそれ、楽しみにしてたんだな。
(…)
そう思うと、余計に胸が痛む。
「あのさ…学園祭は一緒に回れないけど…絶対に、絶対に埋め合わせするから…」
…あかねに対して、後ろめたい事なんて何もないし、
「実はこれこれこういう理由でうっちゃんと行く事になったんだ」
そう、正直に告白すれば済むだけの事だった。
でも、それを全てあかねに話すという事は、やっぱり「キスされた」ことだって話さなくてはいけない。
そうなればあかねは、やっぱりあまり良い気分ではないだろうし…
「…」
俺がそんなことをグルグルと考えていると、
「もう、どうしたのよ今日は。やけに優しいじゃない?」
あかねが、不思議そうな顔で、俺の顔を覗き込んだ。
「べ、別にそんな…」
「隠し事でもしてたりして」
「し、してねえよ!」
俺が、思わず必要以上にそう強調して叫ぶと、
「ふーん…でも、本当にそんな気を使わなくてもいいわよ。それにあたしは、学園祭の日だけじゃなくても、他にもい
っぱい、乱馬と一緒に遊びに出かける機会だってあるんだから。だから、しっかりお友だちのお手伝い、してあげるのよ?」
「あかね…」
「だから、今回は我慢する。あたしが我慢すれば済む事だわ」
あかねは、そんな俺を安心させるようにそう言って、笑った。
「…」
その笑顔は、とても柔らかく、そして…澄んでいる。
「…」
…こんなあかねの気持ちに俺は甘えて、嘘をついたのか。
そう思うと、更に胸は締め付けられた。
でも、どうしても…事実をあかねに伝える事は出来なかった。
「…ごめん」
俺の口からは、そんな謝罪の言葉しか出てこない。
「もー、ホントに気にしないでよ。今日の乱馬、何かおかしいよ?」
あかねが、いつまでも謝る俺の肩をポン、と軽く叩いた。
「…」
俺は、そんな俺の体を叩いたあかねの手を強引に掴み、そして少し乱暴にあかねの身体をそのまま引き寄せると、
「乱馬っ…」
「…」
…そのまま、自分でもビックリする位強引に、あかねの唇を奪った。
いや、「奪った」というよりは、「奪っていたようだ」と表現した方が正しいだろうか。
それぐらい、あっという間の出来事だった。
「…」
まるで、心の中にあるモヤを掻き消そうとでもするように。
まるで、自分の中の迷い、を忘れてでもしまいたいかのように。
俺は、長い、長い時間をかけてあかねにキスをすると、ふと、離れた。
「…乱馬?どうしたの…?」
唇が離れ、身体が自由になった後。
俺の胸に顔を埋めるように抱きついたあかねが、そんな俺の顔を見上げながら呟いた。
「…ごめんな」
…それは、一緒に学園祭を回ってやれないことに対して謝ったのか。
強引にキスをしてしまった事に謝ったのか。
それとも、うっちゃんキスをされ、それを秘密にしている事に謝ったのか。
…定かでは無かった。
どちらにしろ、はっきりとしないままとにかく俺はまた、「ごめん」と呟いていた。
「…」
あかねは、そんな俺の様子にしばらく首をかしげていたが、
「もう、ホントにそんな気にしないでよ」
「あのっ…来年はそのイベント、絶対に一緒に行くからっ…」
「え?」
「来年は必ずっ…それでいいか!?」
俺が必死にそう尋ねると、あかねは一瞬困ったような表情をしつつも、
「わかった。じゃあ、来年ね」
と、笑顔で答えてくれた。
「ああ、来年は必ずっ」
とりあえずほっと胸を撫で下ろす俺に、
「うん。約束。だから気にしないでね」
あかねは、さらに安心させるような口ぶりで優しく笑いそう言うと、
今度は自分から、俺の唇にそっとキスをした。そして、
「おやすみ、乱馬。あしたも準備、がんばろうね」
そう笑って、自分の部屋へと戻っていった。
「…」
そんなあかねの後ろ姿を見送りつつ、やっぱり何だか胸の中がすっきりとしない俺が、そこにいた。
そして、翌日。
俺とあかねが登校するころには、教室の中ではもう、俺が予想もしていなかった「最悪の事態」が起こっていた。
「おーっす」
日直だというので、職員室によってから教室に行く、というあかねと分かれて俺が一人先に教室へと入ると、
「…」
それまでザワザワしていた朝の教室の喧騒が、面白いくらいにピタリ、とやんだ。
「?」
俺が、教室の入り口できょとんとした顔をしていると、
「おい、乱馬っ」
「よお、ヒロシ。おはよう」
「おはよう、じゃねえよ。いいからちょっと来いっ」
そんな俺の姿を見つけた悪友のヒロシ・大介が、俺の腕を引っ張りそのまま教室の外の廊下へと連れ出してしまっ
た。
「な、なんだよ」
俺が二人のそんな行動に驚いていると、
「お前、うっちゃんとキスしてたってのはホントなのか?」
ヒロシが、そんな俺に向かって小声で囁いた。
「え!?」
あかねにさえも言っていないその事を、何で…といった表情を俺が見せると、
「やっぱりホントなのか…」
ヒロシも、そして大介も、眉間に皺を寄せたような顔で俺を見た。
「な、何でお前らそれを…」
俺が、急にドキドキと鼓動し始めた胸を抑えながら掠れた声で尋ねると、
「…隣のクラスの女子が、昨日の夕方公園で、お前が身体を屈めて俯いてる右京にキスしているのを見たって言い
ふらしてんだよ」
大介がそう言って、小さくため息をつく。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!身体を屈めたのは俯いたうっちゃんの顔を見る為だしっそれに…」
それに、キスをしてきたのはうっちゃんの方だ、と、俺がヒロシと大介に弁解するも、
「乱馬よ。噂って言うのはな、そういう『大事な部分』が抜けて、面白おかしく流れるからこそ、噂なんだ」
「そうだぞ。それにお前が今更そんなことを言って回ったって、『言い訳してる』くらいにしか取られねえよ」
二人は、そんな俺に言い訳を却下するかのようにそう呟く。
「そ、それにキスされたのは鼻先で、別に唇じゃあ…」
「…目撃した奴らは、夕闇の中、通りの向こうから見てたっていってたぜ。それに、見てた奴らにとっては、どこにキ
スしたかなんて関係ねえんだよ」
「そうそう。『キスをした』って事実と、『お前がしているように見えた』ってとこだけなんだって」
「そ、そんな…」
「しているように見えた、が、隣のクラスからうちのクラスに伝わってきた時には、『お前からしていた』になってたから
な」
「…」
「…あかね、知らねえんだろ?やべえんじゃねえか?」
「…」
二人の言葉に、俺は、不意に頭を何かで殴られたかのような衝撃を受けた。
…隠そうと思っていた事が、ばれてしまった。
しかも、最悪の形で、だ。
事実とは全く違う「話」として、あかねより先に、他の奴らに知られてしまった。
このままでは、あかねの耳に入るのだって時間の問題だった。
「っ…」
…くそっ。やっぱり昨日、迷ってないでちゃんと話しておけばよかったんだ。
「…」
ダン、と廊下の壁を拳で叩きながら、俺は激しくそう後悔をしていた。
と、その時。
「おはよう」
廊下の隅でコソコソと話し込んでいる俺達に、そんな柔らかい声がかけられた。
「!」
その聞き覚えのある声に、俺達三人ともがビクッと身を竦ませてしまうと、
「早く教室に入らないと、もうすぐ授業、始まっちゃうよ?」
…職員室帰りで、日誌を腕に抱えたあかねが、笑顔で俺たち三人にそう語りかけてきた。
(…まだ、聞いてねえのかな…)
俺がそんな事を思いながら、笑顔のあかねの顔を見て黙っていると、
「さ、教室に入るかなー…」
「ひろし、おまえ宿題やって来た?」
…ヒロシと大介は、まるでコソコソと逃げるように、俺を置いて教室へと引っ込んでいく。
「あ…あの…」
一人廊下に取り残された俺が、笑顔で立っているあかねに、恐る恐る、何か声をかけようとすると、
「…嘘なんでしょ?」
日誌を抱いて笑顔を見せたまま、あかねは俺に、一言言った。
「え…?」
俺が、ギクリ、と身を竦ませると、
「噂は噂、なんでしょ?嘘なんだよね?」
あかねは、笑顔のままもう一度俺にそう質問をした。
そのあかねの顔は、
顔こそは笑っているけれど、瞳は…とても真剣なものだった。
少し不安で雲って、そして、黒く艶を帯びて光っている。
「あの…」
俺は、そんなあかねにどう答えたらよいのかわからず、言葉をにごらせた。
…一体、何と説明したらよいのだろうか。
「キスをしてきたのは、うっちゃんだ」とでも言えばいいのか?いや、あかねはきっと、そんな事を知りたいのではない。
「したのか、しないのか」そして、それを「どうしてそれを隠していたのか」…あかねが知りたいのはそこなんだろ
う。
(…)
迷っていたのが仇となった。
俺は痛烈に後悔した。
「…ごめん」
…俺は、とりあえず素直に謝った。
「…ごめんて?ごめんて、どういうこと?」
あかねが、そんな俺に小さな声で質問を返してくるので、
「だから…その…」
…その噂、ホントの事なんだ、と、俺は正直にそこで事実を話した。
「でも、俺からしたってのは根も葉もない噂なんだっ。あれは…」
そしてそのまま、事の真相を全てあかねに伝えようとするも、
「…わかった」
…あかねは、たった一言そう呟いただけで、それ以上は何も俺に言わなかった。
「え…わかったって…」
俺が慌ててそんなあかねに問うも、
「授業、はじまるよ」
あかねは俺の問には何も答えず、すこし困ったような顔で、ヤッパリ先程と同じように笑ったまま…俺の横をすり抜
けて教室に入っていった。
「…」
…何も文句も言わず、何も責めず、そして笑顔のまま。
『わかった』
…いっそ、感情的に責められたほうが、どれだけ楽だっただろうか。
「…」
たった一言だけしか呟かなかったあかねのその小さな声が、俺の頭に幾度も響き渡っていた。