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→ラストメモリーズ 5

「話があるんだけど」


…それから二日後の夜。
何の進展もなく、そして一向にあかねの欲する「言葉」が思いつかないまま、日にちだけが無駄に過ぎていた。
「…」
何をどうしたら言いのか、分らない。
先生にも頼りたくない。じゃあどうしたら…?
そんなもやもやした気持ちを発散させるべく俺が道場で一人稽古をしていると、何だか複雑な表情をしたあかねがやってきた。
そして、険しい表情で俺を見つめている。
「…」
俺が稽古の手を休めあかねを見ると、
「貴方に話がある」
もう一度あかねがそう言って、俺と対峙した。
そして「話すのも本当は嫌だけれど」とでも言いたそうな冷たい視線を俺に向けると、
「この間、貴方があたしを置いて先に帰った時のこと。あたしは全然構わなかったけど、でも東風先生が貴方の事を心配してあたしに尋ねてくるの」
「…乱馬」
「え?」
「俺の名前は、乱馬だ」
俺は、そんなあかねの言葉を遮りまずはそう告げた。
あかねの口から、俺の事を「貴方」とか…そういう抽象的な言葉で表現されるのが嫌だった。
東風先生の名前はでるのに俺の名前がでてこないのが多分一番気に障るんだとは思うけれど。
俺の名前は、乱馬。お前は俺をそう呼んでいたんだと…俺は声にだしはしないがそう主張した。
「じゃあ…乱馬…」
あかねはそんな俺に対し、戸惑ったような表情を見せつつも改めて俺の名前を呼び直すと、
「…東風先生にあんまり心配かけるような事、しないでよ」
あかねは俺にそう言いはなった。
「あの日以来、乱馬があそこに顔を出さないって事、先生心配していた」
「…」
「あたしが顔を出すだけじゃ心配みたいで…何でそんなに乱馬の事を気にかけているのか分らないけれど、とにかく先生だって治療にお忙しいし大変なんだから、余計な心配とかかけないで。迷惑かけないでよ」
そんなあかねに対し、
「…余計なお世話だ」
先生の事しか心配していない素振、俺の気持ちなんてきっと考えていない様子…全てが気にいらない俺は、妙に腹が立って思わず酷い言葉であかねにそう返す。
「なっ…なによ!」
案の定、あかねはそんな俺の言葉にカチンと来たようで、あからさまにムッとした表情を俺に見せた。が、
「そんなのわかってるわよ!別にあたしはあんたのことなんてどうでもいいの!あんたの様子がおかしかろうが何だろうがあたしには関係ない。でも…」
あかねはそう言って俺を見上げ、
「先生があんまり心配してたから…せっかく心配してくれているのに、無下にするなんて失礼よ…」
と、先ほどまでの勝気で不快そうな表情一転、何だか酷く困ったような表情を見せる。
「…」
その表情は、俺の中に明らかに大きく、暗い影を落としていた。
同時に、俺の胸に鈍くて冷たい痛みと、そして衝撃が伝わっていく。
乾いた地に降り注いだ雨が勢いよく吸収されるが如く、俺の胸は受けた痛みを躊躇することなく全て受け入れようとする。
受け皿が一杯になって、胸が悲鳴をあげているというのに尚も、痛みだけは俺の胸へとするりと忍び込んでくる。
…何だかこれじゃ、あかねが東風先生を好きだということを改めて思い知らされたような錯覚を見受ける。
大好きな先生に、お願いだから余計な心配かけないで…正面切って、そういわれたような気がした。
分ってはいてもやはり…ショック、だった。

「…そんなに東風先生の事が好きなのかよ」

次の瞬間…俺は、自分でも信じられないがそんな情けないことを口走っていた。
声に出してはいけない事だとわかっていたはずなのに、どうしても理性が利いてくれなかった。
「なっ…あたしは別に先生のことなんてっ…」
そんな俺の不粋な質問に対し、おかしなこと言わないでよ!と、あかねは今更ながら一応否定をするも、
「あたしはっ…あたしは男なんて大嫌いなの!そりゃ先生のことは尊敬しているけど、でも…!」
「でも何だよ?」
「でも…先生はお姉ちゃんが…だから…」
あかねはそう言って、きっと自分の意志と反して震えだした手をぎゅっと、握っていた。
大きくてパッチリした目をそっと伏せて、まるでお人形のように長くてくるんとした睫毛も下向きに伏せてしまう。
俺はそんなあかねの姿を見て更に、苦しくなった。
「…」
…ホントは。
あかねが何を言いたくて、何を伝えたいかなんてわかっていた。
それに、「あたしは東風先生が好き」というその一言を、あかねがどうしても口に出せないことも分かっていた。
先生の事も、先生の思い人であるかすみさんのことも大好きなあかねが、どっちも大切だからこそ自分の気持ちを押し込めようとしていること、
でもだんだんそれが抑えきれなくなり始めて、だから苦しくなっている事…俺が一番分かっていたはずだった。
なのにあえて俺は、そんなあかねを苦しめた。
そう、まるで今の俺の心同様、苦しくて、切なくさせるかのように。
まるで俺の苦しみを知れとでも、訴えているように。

最低の行為だ。
「…」
あかねはじっと黙って俯いていた。
角度によって、あかねの長い睫毛が黒光りしているようにも…見える。
…泣かせちまったのかな。
誰よりもそれを許さないのに、また俺がそれをさせちまった。
苦しめて切なくさせて、あげく泣かせて…傷つけることしか出来ない俺は、そんなあかねに対しひどく罪悪感を覚えた。
「…」
胸が、苦しかった。
広い道場の中、遮る物など何もないはずなのに、身体が窮屈だった。
何かを、あかねに伝えようと考えた。でも、何か伝えようとするたびに胸の痛みも、あかねの涙も増えていく。
お互いの痛みが、増していく。
「…ごめん」
俺は、小さな声だったけれど何とかあかねに謝った。
「…」
あかねは、そんな俺の言葉に黙って一度だけ頷いた。
それは「許してあげる」の意味なのか、それとも「もう謝らなくていいから放っておいて」の意味なのか、今の俺にはわからなかった。
あかねは、俺に俯いた表情を伺わせないまま、道場を出ていってしまった。
「…」
…一体いつまでこんな状態が続くんだろうか?
気がおかしくなりそうだった。こんな張り詰めた状態が続くのは、長い間耐えられそうも無い…俺は弱音を吐いていた。
いっそのこと、東風先生を頼ってしまおうか。そんな事まで考え付く。
それだけは絶対に嫌だ…と頑なに思ったことでさえ、今の俺には幻想の如く翳んでいる。
「…」
頼む。誰でも言いからどうにかしてくれ。
一体誰に願っているのかわからないけれど、俺はそんなあかねの背中を彼女が見えなくなるまで見つめ、そんなことを思いながら大きなため息をついた。






「昨日は…ごめん」
翌朝。日課のロードワークを終え、朝風呂に入って汗を流したあかねを風呂場の前で待ち伏せした俺は、素直にあかねに謝った。
そんな俺に対しあかねは、
「別に…気にしてないから」
感情が全く篭ってない低い声で、答える。もちろん目線を逸らしながら。
「…」
今までどんなに怒らせたり悲しませたりしても、今日ほど冷たくて、そして感情の無い返答を受けた事は無かった。
「気にしていない」と言われ言葉上では許されたのかもしれないが、あかねの発する一言一言が俺の胸を貫いていく。
「…」
そんなあかねに、俺が黙り込んだままでいると、
「あたしは…どうしたらいいの?」
不意にあかねがそんなことを言い出した。
「どうすればって?」
一体何のことを言い始めたのか。俺のほうがどうしたら言いのかわからないのだが…俺が逆にあかねに聞き返すと、
「昨日の夜…道場から部屋に戻ってなびきお姉ちゃんと話す機会があったの…その時、本当の事を聞いた」
「本当のこと?」
「あたしは…ホントは乱馬と付き合っているんだって…こと」
あかねは震えるような小さな声で、俺にそう答えた。
ビクッ…俺はあかねのその言葉に身を竦めた。
「あたしは今、変なお香のせいでその記憶が急に消えちゃっているから、その記憶をなくしているだけで…だから、それを直そうと乱馬は焦ってるんだって…。だから少しくらい乱暴で失礼な事を言っても許してやれって…お姉ちゃん、そう言っていた」
あかねはそう言って、俺を見た。その瞳は、明らかに戸惑いの色に染まっていた。
俺は、複雑な思いのままその瞳を見つめなおしあかねと対峙する。
あかねは、戸惑いの色に染まる瞳を何度も瞬きさせながら、震える声を搾り出すように続けていく。
「でも、ピンとこないの…乱馬と付き合っているって言われても…」
あかねは、自分の手をぎゅっと胸の前で握りあわせた。
「あたしは…あたしの気持ちは…」
あかねはそう呟いて、きゅっと目を閉じて震えていた。
俺はそんなあかねをみて、また胸に痛みを感じた。
…多分。
なびきの入れ知恵によりホントは俺と付き合っていることを頭に叩きこまれても、あかねはそれを受け入れきれていないのだと思う。
男嫌いで、好きなのは東風先生だけ。胸の中は先生の事で一杯で、溢れ出しそうな思いを塞き止めるだけで精一杯なはずなのに、
記憶の中ではその時点で止まっているのに、でも実際は別の男と自分は付き合っている。
しかも心だけではなく身体まで許していて…
そんなちぐはぐな状況下で、上手く自分の心と身体が、そして頭が連携が取れなくなっているのだろう。
あかねはひどく混乱しているように見えた。

そんなあかねを見て、俺の胸は更に苦しくなった。
…確かに、今の状態ではあかねは東風先生の事が好きで仕方がないのだろう。
でも…でも、暗示が無ければ、今は本当はあかねは俺の許婚だ。
俺の、愛しい人なんだ。俺の…俺のあかねなのに!
「…」
混乱しているあかねを思えば、例え真実がそうであってもそれを口に出してはいけない、気持ちを無下にぶつけてはいけないことくらい、俺だってわかっていた。
でも、そうしようとすればするほど、俺の中で抑えていた「何か」がこみ上げてくる。
あかねが「本当は俺と付き合っていた」という事を知ってしまった事が拍車をかけているのか…知られてしまった以上、だったら早く思い出して欲しい。
俺の事を思い出して、先生の事なんて心の中から追い出してしまえ!…叫びたい衝動に駆られる。
「お前は俺のものなんだ」
今この瞬間、そう叫んであかねを抱き締めたかった。
ここ数日、悩んで苦しんで胸が痛くて…その思いが今一気に、爆発しそうだった。
だから俺は、
「ちょ…ら、乱馬、何…」
…もう自分を抑える事が出来なかった。
気がついたとき俺は、目の前で今にも泣き出しそうなあかねの腕を強引に掴んでいた。
「乱馬ッやだッ…やめて!」
俺のただならぬ雰囲気に、あかねも何かを感じたのだろう。あかねは俺の腕を振り切って逃げようとしたが、
俺はそのあかねをもちろん逃がすはずも無く、そのまま強引に引き寄せる。そして、嫌がるその身体を…抱き締めた。
「いやっ…離して…離してっ…」
あかねは、そんな俺から必死で逃れようとするが、勿論俺の力に叶うはずも無い。
こんな時だけ力の誇示をするなんてものすごく嫌な男だ。俺は自分を咎めるも、理性が欲望を超えることが出来ない今の俺にはそんな咎めも何の枷にもならない。
俺は、嫌がり脅えるあかねの顔を強引に自分へ向かせると、
「や…やめ…やだ…やだっ…」
…嫌だと。
俺に泣きながら嫌だと拒むあかねの振るえる唇を強引に…奪った。まるで噛み付くかのように、強引にぎゅっと、唇を押し付ける。
「んっ…」
俺の唇が触れた瞬間、あかねの身体がびくっと竦んだ。がくん、とあかねの身体の力が抜ける。
俺はそんなあかねの身体をしっかりと抱きしめ、そのままあかねに唇を押し付ける。
一瞬離れ、またすぐに唇を押し付けて…絶対に逃がさないように、何度も何度もその唇を奪っていた。
こんなに嫌がるならば、いつもならすぐにあかねを離してやっただろう。でも今日の俺にはどうしてもそれが出来なかった。
そう、きっと哀願されてもそれは変らなかっただろう。


「…」

時間が、流れた。
あまりにもキスする事に集中しているがゆえ、それがどの位経っているのか、俺には分らない。
俺の耳には、洗面所の蛇口から水がしたたり落ちる音だけが、リアルに響いていた。
ポタッ…ポタッ…
普段生活する時には全く気にならないような小ささであるはずなのに、
その静かで澄んだ水の音は、今の俺の耳にはコンサートホールで演奏をしているオーケストラよりも大きく響いていた。
「…」
…俺は、静かにあかねの唇から自分の唇を離した。
「…」
唇を離した後に俺の目に映るのは、あかねの悲しそうな顔。
押し付ける前よりももっと、震える唇…そして、潤んで黒光りする瞳。
俺の胸に、何かがズン、と圧し掛かる。
「嫌なの…」
…あかねが、俺を見つめながら小さな声でそう呟いた。
そう呟くあかねの瞳から、涙が次から次へとこみ上げて溢れ出る。
「だめなの…」
あかねが、もう一度小さくそう呟いた。今度は声もはっきりと震えていた。
「…ごめん」
…俺はそんなあかねを直視できなかった。
それと同時に、酷い罪悪感に駆られ胸が苦しくなる。
俺は、何て酷い事をしたんだろう…今更ながら、その罪の意識に苛まれる。
こんなことをすれば今のあかねがどんな気持ちになるか、俺が一番分っていたはずなのに…
また、あかねを傷つけた。俺は、そんな自分が腹立たしくて仕方がない。
「…」
あかねは、流していた涙を手の甲で拭うと、俺の身体を突き飛ばし横をするりと擦り抜け、そのまま走り去ってしまった。
「…」
そんな走り去るあかねの後ろ姿を目で追いながら、俺は申し訳ない気持ちと苦しさと腹立たしさで自分の感情が良く分らなくなる。
追いかけたい。本当は追いかけて、抱きしめて慰めてやりたい。
でも、今の俺には…そんな資格は、ない。
「早くどうにかしないと…」
…このままじゃ、俺もあかねもおかしくなっちまう。
俺は、そっと目を閉じて天を仰いだ。痛切に、そんな思いが全身を駆け抜ける。




三日ぶりにしたキスは、涙の味がした。

 

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