あたしたちは、お店を後にして歩き出した。
…手を繋いで歩いているはずなのに、なぜかその手に「温かさ」が感じられなかった。
物理的な温かさじゃなくて、精神的な温かさが。
「…」
あたしも乱馬も、一言も話さなかった。
…きっと。
言いたい事は、山ほどあって。
話したいことも山ほどある。
だけど、お互いの意地っ張りな性格が影響してるせいもあり、あたし達は顔を強張らせたまま、ただ、夜道を歩いていた。
そして、あたしの胸には…秋緒さんのお店で作った、「問題のケーキ」が入った箱が抱かれてい
る。
…腕のいいパテシエである秋緒さんの言う通りに作ったのに、自分でも驚くくらい不味く焼き上がってしまった、ケーキ。
味見をするなといわれていたのに味見をし、乱馬に渡す前にそれを知ったあたし。
でも、それを秋緒さんに告げようとしたら、秋緒さんは、『そのケーキでいいのよ』真面目な顔で、そう言った。
(どうしてだろう…秋緒さん、何で?)
あたしには、秋緒さんの真意がわからなかった。
「彼と仲直りをする為の細工…作る手助けをしてあげるよ」
そういって、ケーキの作り方を教えてくれてたはずなのに。
もしかして…あたしが味見する前から、あたしがつくケーキが不味く焼き上がる事を知ってたって事?
まさか、わざと「不味く出来上がる」方法をあたしに教えてたって事?
…どうして?
…何で?
(一体なんで…)
あたしは、そんなことをずっと考えていた。
…と。
そんなあたしの手を引いていた乱馬が、ふと立ち止まった。
「あ…ッ…」
ぼんやりと歩いていたあたしは、思わず乱馬の背中に激突してしまって、
「あわわッ」
胸に抱いていたケーキの箱を、地面に落としそうになった。
すると、あたしが拾うより一瞬早く乱馬がその箱を拾った。
「あ、ありがと…」
あたしがその箱を受け取ろうとすると、
「…これ、作ったんだろ?」
…店を出て以来、ようやく初めて乱馬が口を開いた。
(!何で…)
あたしは乱馬のその言葉に、はっとした。
(何でそれを…)
一言も、「作ったケーキを持っている」とは言っていないのに。
(…秋緒さん?まさか電話で乱馬に何か…)
あたしは、そう確信した。
乱馬は、秋緒さんから何かケーキの事、聞いてるに違いない。
あたしはそう直感したけれど、あえてそれを口に出さず、
「そうよ」
…あたしは小さな声でそれだけ答えた。
そして、乱馬の手から箱を取り返そうとするけれど、何度取り返そうとしても、乱馬はヒラリヒラリと身をかわして、箱を返そうとはしない。
「ねえ!返して!」
あたしは、ひらりと身をかわしていく乱馬に、必死で飛びついた。
「それ、返してッ…それは…」
あたしが箱に手を伸ばそうとすると、
「これ…俺と仲直りする為に作ったんだろ?」
乱馬は、そんなあたしの手をすり抜けるように箱をまた動かすと、そう言って、素早く箱をあけてし
まった。
そして、
「だ、だめ!それ食べないで!」
あたしが止めるまもなく、ぱくっと…箱の中のケーキを小さくちぎり、口に入れてしまった。
「あッ…」
あたしは、さっと表情を曇らせてしまった。
それは、自分でも分かった。
「…」
ケーキを口に入れた乱馬は、口に入れてからしばらくは何も言わなかった。
「…」
そんな乱馬の様子を見るあたしも、何をどう声を掛けたらいいか分からなかった。
と。乱馬が、チラッと一瞬、あたしの方を見た。
「…」
あたしには、そんな乱馬が次に何を言うか…大体想像できていた。
『不味い』
『何だこれ』
だいたい、そんな所だ。
(…あたしが食べたって、『不味い』って思ったんだもん…)
覚悟はしていた。
…けれど。
「…」
乱馬は何も言わず、箱の中のケーキをもくもくと食べ始めた。
一口食べ、もう一口食べ…一気に三分の一くらい口にほおりこんで。
次々と、箱の中のケーキを食べ始めた。
…あの、恐ろしくすっぱくて「不味い」ケーキを。
あたしが思わず吐き出してしまったくらい「不味い」と思った、ケーキを、だ。
「ら、乱馬…もういいよ」
表情一つ変えずに「不味い」ケーキを口にほおり込む乱馬。
(何よ…何食べてんのよ、そんなものッ…)
そんな乱馬を見てるのが…辛かった。
「乱馬、もういいってば!」
あたしは、乱馬がケーキを口に運ぶ手を抑えた。
けれど、乱馬はそんなあたしを無視したままケーキを食べつづける。
そして…全部、食べ尽くしてしまった。
「…」
あたしは、そんな乱馬を呆然と見つめていた。
乱馬は、そんなあたしが掴んだ自分の手をゆっくり外した。
「…」
あたしたちは、お互いの顔を見たまま、何も話すことが出来なかった。
…でも。
あたしは、どうしても聞きたいことが一つだけあった。
「…そのケーキ。美味しかった?」
あたしは一言だけそう呟いて、俯いた。
「…ああ」
…そんなあたしの問いに、乱馬は一言だけそう返事をした。
「…嘘つき」
あたしは、そんな乱馬の答えに対して、ぼそっと呟いた。
…あたしは。
あたしは、意地悪だ。
自分でもそう思った。
このケーキは、「不味い」。
美味しいわけがない。
そんなの、食べたあたしが一番良く知ってる。
答えだって、わかってる。
なのに…なのに、あたしはあえて乱馬に聞いたんだ、今。
「美味しかった?」って。
乱馬はなんて答えるのかなって。
あたしは乱馬を試そうとしたのに。
なのに…
・・・
「嘘つき」
あたしは、もう一度そう呟いて、乱馬の顔を見上げた。
「何でそんな嘘つくの?不味かったでしょ!?あたし…あたしが食べて、不味かったんだもん!秋緒さんも、乱馬にそう言ったんじゃないの!?」
「…」
乱馬は、そんなあたしの言葉を聞いても何も言い返さない。
「何でそんな嘘つくのよ…」
…たまらなかった。
自分が情けなくて、仕方なかった。
なのに、あたしは…乱馬に当り散らしていた。
…最低な女だ。
「何であんな不味いもの食べちゃったのよ!」
あたしは、いてもたってもいられなくなって…乱馬の横をすり抜けて走り出した。
…つもりだった。
「待てよッ」
乱馬は、そう叫ぶや否や自分の横をすり抜けて走り出そうとしたあたしの手を、
ガシッ…
と、今度はしっかりと掴んだ。
夕方、あたし達の手がするりとお互いすり抜けてしまた時とは違った。
「痛い!」
あたしが思わずそう声をあげ手しまったほど…強い力であたしの手を掴まえた。
「嘘じゃねえよッ」
「嘘よ!だって、だって…あたしが食べて、思わず吐き出しちゃうくらい不味かったんだよ!?なのに…」
あたしは、手を掴まえられながらも必死で叫んだ。
乱馬はそんなあたしを逃すまいと手を掴みつつ、ちょっと声を荒げてあたしの言葉を遮るように叫
んだ。
「俺と仲直りしようと思って作ったんだろ?そんなの、不味いわけねーだろーが!」
乱馬はそう言って、ようやくあたしの手を離した。
「…」
急に怒鳴られた事と、そして乱馬の言葉に驚いてしまったあたしは、何も言い返すことが出来な
かった。
あたしは、ようやく離されたその手を胸にゆっくりと抱き、俯いた。
「…ご、ごめん」
乱馬も、急に声を荒げてしまった事に対して慌ててあたしに謝る。
「…」
あたしは、そんな乱馬に対して、ゆっくりと首を縦に振った。
「ごめん…。もう、帰ろう…」
乱馬は、頷いたあたしの頭を一度、ぽんと叩いた。
そして、俯いているあたしの横を通り過ぎ、ゆっくりと歩きだした。
…そんな乱馬は、もうあたしの手を繋いでは歩こうとしなかった。
さっきまでのように、あたしの手を繋ぐ事はなく、立ち止まるあたしと歩いていく乱馬の距離は、どんどん、遠くなる。
(…)
そんな乱馬の後ろ姿を見る、あたし。
…もう、嫌だ。
これ以上、あたし達の距離が離れてしまうのは嫌だ。
そう思った。
…仲直りのケーキは失敗作で。
でもそれを黙って食べてくれた乱馬。
気を使って、あたしを傷つけないようにしてくれてたかもしれないのに…
なのに、あたしは自分勝手なことばっか考えて。
…
……
今ここで仲直りしないと…ううん…「しないと」じゃない。「したい」の。
仲直りしたいの。
もう一度、仲直りしたいの。
もう一度、ちゃんと目を見て話したいの。
そして、もう一度…今度はちゃんと手を繋いで歩いて欲しいの。
あたしの手を、もうこれ以上距離が離れないように…ちゃんと掴まえていて欲しいの。
…ちゃんと、掴まえて。
「…」
…そう思った瞬間だった。
あたしは、先に歩いていた乱馬のほうへと走り出していた。
そして、ガバッ…と乱馬の背中に抱きついた。
「え…おい、何だよ急に」
そんなあたしの行動に、乱馬は慌てて立ち止まる。
「…ごめんなさい」
…あたしは。
乱馬の背中に顔を埋めて、小さな声でそう呟いた。
「…」
乱馬は、何も言わなかった。
「勝手な事ばっかり言って…ごめんなさい」
あたしは、そんな乱馬にもう一度、小さな声でそう呟いた。
「離せよ」
…そんなあたしに、乱馬はたった一言だけ、そう言い返した。
そんな乱馬の言葉に、あたしはいつの間にか涙を流していた。
「離せよ」
…そのたった一言が、あたしの胸に強く残った。
ジワリ、ジワリと鋭い痛みがあたしの胸を貫いていく。
…拒絶された。
そう思った。
きっぱりと拒絶されたんだ。
あたしはそう思わざる得なかった。
「ごめんなさい…」
あたしは、乱馬の背中からそっと離れた。
「…」
乱馬は、そんなあたしが自分から完全に離れたのを確認するや否や、
「いいよ、もう」
そう言って、
今度は乱馬が、さっきあたしがそうしたように…そっと、抱きしめた。
「…」
あたしが驚いて俯いてた顔を上げると、
「俺…抱きしめられるより、抱きしめる方がいい」
乱馬はそう言って、あたしを抱きしめつつも、着ているチャイナ服の袖を使いながら、
「ひでえ顔。…泣きすぎなんだよ、オメーは」
とあたしの顔を流れ落ちる涙を拭った。
「…」
あたしは、再び俯く。
「…怒ってねえよ」
乱馬は、そんなあたしを自分の方へ強く引き寄せながら、はっきりとした口調でそう言った。
「でも…」
あたしがそんな乱馬の言葉を受けて再び顔を上げると、
「元はといえば、俺の勘違いでややこしくなったんだし…。ごめん」
乱馬はそう言って、ばつが悪そうに笑った。
「ごめんなさい」
あたしは、そんな乱馬の笑顔を見て…やっぱりまた、泣き出してしまった。
「ちょッ…ほら、もう泣くなよッ」
「だって…」
…ようやく仲直りできた嬉しさと、安堵感。
それが、海岸に打ち寄せる波よりも速いスピードであたしの胸の中へと流れ込んできたせい
か…あたしは再び、堰を切ったように激しく泣き出した。
「あー、もう…ホントしょうがね-奴」
乱馬は、再び激しく泣き出したあたしにオロオロしていたけれど、
「…ったく。こんな泣き虫な奴面倒見てやれるのなんて、俺ぐらいしかいね-じゃねーか」
とか何とか言いながら、泣き出したあたしがちゃんと泣きやむまで…しっかりとあたしを抱きしめていた。
…そして。
「…じゃあ、乱馬は食べる前から知ってたんだ…。あたしが持ってるケーキが不味いの」
あたし達はしっかりと手を繋ぎながら、家への道を歩いていた。
…さっきまでは気が付かなかったけれど、そんなあたし達の手の繋いだ姿を、オレンジ色に鈍く光る満月が、後方から清かに映し出してい
た。
あたし達が歩くたびに、背後から照らし出されたあたし達の「繋がった」影が、ゆらゆらと揺れる。
ゆらり、ゆらりと揺れる影。
でも、決して離れる事がない二つの影。
それは、あたしたちがちゃんと仲直りできた事を物語っているようで…
手を繋いで歩く夜はいつもこの影を見ることが出来ているのだけれど、でも今夜はそれが、特に嬉しく思えていた。
・・・
「電話で、アキオさんって人が言ってたからな。”あかねちゃんはそのケーキが不味い事は知らない。知ってるのは君と自分だけだから”って。だから、それを食べて何ていうかは君の自由だってさ」
…乱馬は。
秋緒さんが電話で言っていた事をあたしに話してくれた。
「…でも、あかねは味見しちまったんだろ?」
「うん…」
「何かあのケーキな、本当は特製のジャムっつーのをつけて食べて、ちょうどいい甘さになるらしい
ぜ?そのまま何もつけないで食うなんて、普通はしないそうだ」
「そうなの!?」
あたしは、乱馬のその言葉に驚いてしまった。
…確かに、あのケーキは不味かった。
あまり甘くないし、そして異常に酸っぱかった。
「そう…」
あたしは、ぼそっと呟いた。
(…それなのに、それを知ってて全部食べたんだ)
「…ありがと」
あたしは、そんな乱馬の気持ちが嬉しくて、
でも直接顔を見てお礼を言うのが何だか恥ずかしくて。
繋いだ手にきゅっと力をいれて、俯きながらお礼を言った。
「べ、別に…」
乱馬もそんなことを言いながら、あたしのその手を握り返す。
「ねえ、あのケーキ、何て名前なの?秋緒さんのお店にある商品なのかな?」
あたしは、ちょっと気になって、乱馬に尋ねてみるけれど、
「あー…何か名前言ってたような気が。忘れちまった」
「何だー。じゃあ、明日にでもお礼を言いに行くがてら聞いてみようっと」
「そーしてくれ」
乱馬はそんなことを言って、ふと立ち止まった。
…そこは、角を曲がればもう家へと着くという場所だった。
「どうしたの?」
家を目前に急に立ち止まる乱馬に、あたしも慌てて立ち止まって、尋ねる。
「ケーキの名前は思い出せないんだけど、もう一個、忘れてたこと思い出した」
乱馬はそう言って、立ち止まって自分の顔を見上げているあたしの頬にそっと手を当てた。
そして、
「甘さが足りないケーキだったから」
そんなことを言うや否や、
「え?」
とボーっとしているあたしの唇に、そっと自分の唇を重ねた。
「…」
あたしが真っ赤になった顔で乱馬をじっと見ると、
「…少し、糖分摂取」
乱馬は一度唇を離してそう呟くと、更に真っ赤になってボーっとしているあたしに唇を重ねた。
そして、しばらくしてから離れると、
「とりあえず、ケーキに必要な分くらいは糖分摂取」
そう言って、ちょっと照れながらにっと笑っていた。
「…糖分取りすぎなんじゃないの?」
あたしが真っ赤になったまま乱馬をじとーっと見ると、
「ホントは、まだまだ全然足りねえよ」
乱馬はそんなことを言いながら、あたしの額を指で軽く弾いた。
「…ばーか」
あたしは、なんだかそんな乱馬がおかしくて。
もう一度だけそんな乱馬に抱きついた。
「…あと五分くらい、うちに帰るの遅くなってもいいよな?」
「うん」
あたしたちは、そんなことを言いながら顔を見合わせ、そして笑った。
ちょうどその時、
あたし達を背後から照らし出していたオレンジ色の月に、夜風に流され、たなびいた雲が流れ着いた。
そのせいで、今まで夜道にはっきりと映し出されていたあたし達の重なった影が…するりと闇の中へと溶け込
んだ。
やがてあたしたちが再び歩き出すその瞬間まで、
風にたなびき、月にかかるその雲は…夜風に吹かれても動くことなく、夜空に輝く月の光を全て…独占をした。
そう、ほんのひと光も、他のものには与えない。
そんな意志さえも感じさせるかのように、ずっと。
「秋緒。昨日の彼女、どうだったって?」
…翌日。
乱馬とあかねが、昨日のお礼もかねて商店街のフランス料理屋「レジェンド」へ向って歩いている
最中のこと。
昼のランチタイムと夜のディナータイムの間の仕込み時間、「レジェンド」の厨房で、秋緒と、秋緒の夫である徹がそんな会話を交わしていた。
「さあ。上手くいったら、今日あたりお店に来そうな気がするわ」
秋緒は、夜に使う材料をそろえたりしながら徹に答える。
「お前、”あのケーキ”を作らせたんだろ?」
「そうよ」
「ジャム渡さなかったって言ってたけど…食えたもんじゃないんじゃないか?」
秋緒が昨日あかねに作らせたケーキの正体を知っている徹は、眉間にしわを寄せながら秋緒に
言うが。
「へーきへーき。あのケーキはね、あたしが修行してきたフランスの田舎でも有名なケーキなんだから。昔から、『喧嘩した恋人同士を仲直りさせる』って言い伝えがあるのよ」
秋緒は暢気にそう言って笑った。
「知ってるよ。俺も向こうで修行してた時、何度もお前に作ってもらったしな」
「でしょ?それで仲直りしたんだから、あながち言い伝えも嘘ではないみたいだし?それに…甘さが足りない分は、二人が仲直りすればきっと満たされるはずだもの」
「はは…。それはそうと…あのケーキにつけるジャム…あれ、確かハチミツと果物を混ぜて作った奴だよ
な?」
徹は自分もディナータイムの仕込みをしながら秋緒に尋ねた。
「ああ、あれ?」
秋緒は、ふと仕込みの手を止めて、徹のほうを向いた。
「そうよ。その果物が混ざったハチミツジャムと、酸っぱいケーキ。二つあわせて『Sweety Honey』っていう
お菓子になるの。『とっても甘いハチミツを、大好きな相手と食べよう』って意味なんですって。…あら?」
…と。
徹の背後、開かれている厨房のドアの向こう側にふと目をやった秋緒が、話をするのを中断した。
「…ほら。徹、見てみなよ。やっぱりお菓子の言い伝え、あながち嘘じゃあないみたいだよ?」
そして。
嬉しそうににやっと笑うと、ゆっくりと厨房から出ていった。
「…ホントだ。すげえ効力だな、あのケーキ」
徹は、店の入り口に向って歩いていく秋緒の後ろ姿と、そして店の入り口から中を覗き込んでいる若いカップルの姿を見て、そんなことを言いながら笑っ
ていた。