「君、大丈夫?」
…誰かが、ブランコに座っているあたしに声をかけてきた。
「…」
…あたしがゆっくりと顔を上げると。
そこには、あたしより少し年上?と思われる感じの人が、立っていた。
髪の毛を後ろで一つに縛り上げ、とても端正な顔立ちをした人。
男物のカーキのダウンコートに、ジーンズ姿がやけにマッチした感じの…人。
肩に背負っているカバンも、洗いざらしの布で作られた大雑把なものだった。
声も低い。
でも、そんな荒々しさや男性っぽい格好を微塵も感じさせない美しい、整った顔をした人だ
った。
「…」
あたしは、声をかけてきたその人があまりにも「綺麗」なので思わずボーっとなって見とれ
てしまった。
と。
「な、なんだか照れるなあ。そんな風に見られると」
声をかけてきた人はそう言って、あたしの前で小さくしゃがんだ。
そして、
「それより、どうしたの?こんな薄暗い公園で一人で泣いてるなんて」
あたしに向って優しく話し掛けてきたんだけれど。
(この人、男の人だよ、ね…)
あたしがそれには答えず黙り込んでいると、
「あ、あのね。別にナンパとかじゃないのよ!ほら、あたしコレでも女なの。いや、たまたま通りがかったら、泣いてるあなたを見つけて…」
あたしに声をかけてきた、その男性のようないでたちの女の人は必死に弁解をする。
(女の人だったんだ…よかった)
「…すみません」
あたしは、今までその人を「男」だと思い込んでたことを素直に謝ると、
「…。なんでもないんです」
ポケットからのろのろとハンカチを取り出して、自分の濡れている瞳にあてがった。
女の人はあたしのそんな様子を見ながら、笑顔で
「そうそう。涙は早く拭かなきゃ。あなたはきっと、笑っているほうが可愛いわ」
そう話し掛けてくれた。
そして自分のポケットからもハンカチを取り出し、あたしと一緒にあたしの涙を拭おうとしてく
れているのだけれど。
「笑うと可愛いわ」
…その言葉で、あたしは不意に、乱馬のことを思い出してしまった。
その瞬間、ようやくちょっと収まりかけてた「悔しさ」や「情けなさ」そして昼間の乱馬の「反
応」とか一気に思い出してしまって、
「うッ…うッ…」
…再び、激しく泣き出してしまった。
「あ、ちょっと、ねえ!?どうしちゃったの!?」
あたしが急に激しく泣き出したことで、
お姉さんは何が何だかわからない様子でオロオロしてしまっていた。
でも、激しくこみ上げてきた「もの」を自分でもどうしたら言いか分からないあたしは、初対面のこの女の人の前でも、ただただ、子供のように泣く事しか出来なかった。
…それから、どれくらいたった頃か。
あたりはすっかり暗くなっていた。
公園の中に立てられている灯りにジジ…ジジジ…とあかりがともり始めた、そんな時間
だ。
「…落ち着いた?」
初対面にもかかわらず、激しく泣き出したあたしにずっとついていてくれたその女の人。
「…はい」
ようやく落ち着いて泣き止んだあたしに、優しく声をかけてくれた。
「もう、ビックリしちゃったわ。いきなりあんな泣いちゃうんだもん」
「ホントにゴメンナサイ」
あたしが素直に謝ると、
「ふふ…何かあなた見てると、あたしの妹見てるみたいでほっとけなかったのよ」
女の人はそう言って、あたしの顔を見てにっと笑った。
「妹さん・・・いらっしゃるんですか?」
あたしがそう尋ねると、
「ええ。今は離れて暮してるけどね。たぶんあなたと同じくらいの年、かなあ?」
「そうなんですか」
「そう。あ、あたし永井 秋緒っていうの。商店街のフランス料理屋で、パテシエやってるのよ」
女の人・秋緒さんはそういって、ゴソゴソとカバンをあさり、自分のお店の名刺を取り出しあ
たしに渡してきた。
あたしはそれを素直に受け取って、じっと見る。
「あ…」
あたしは、思わず声をあげてしまった。
秋緒さんに渡された名刺に書かれたお店の名前は、あたしも知っているものだったから
だ。
今結構話題になっている、オシャレなフランス料理屋さん。
土曜なんかのランチ時、高校生でも安心なリーズナブルな値段でデザートとかを食べさせ
てくれるお店。
「あのお店のパテシエさんだったんですか!?」
あたしが名刺を握り締めながら感動してそう言うと、
「あれ?知っててくれたの?お店のこと。何だか嬉しいな」
秋緒さんはそう言って、照れた様子で頬を掻いていた。
そんな秋緒さんの左手には、今まで全く気が付かなかったけれど…銀色の指輪が光っていた。
「あの…ご結婚されてるんですか?」
あたしがその指輪を見つめながらぼそっと呟くと、
「あ?これ?。ええ。高校の時の同級生とね。彼と一緒に、ここのお店やってるのよ。ま、彼が一応メインシェフってとこかしら?」
秋緒さんはそう言って、笑った。
「いいなあ…彼と、仲良くて…」
あたしは、そんな秋緒さんに思わずそんなことを口走ってしまった。
「仲良いっていうか、一応まがりなりにも夫婦だしね。あなたは…えっと…?」
「あ、あかねです。天道、あかね」
「あかねちゃんは彼氏と上手くいってないの?」
すると。秋緒さんはそう言って、あたしの顔をぐっと覗き込んだ。
「…」
…あたしは。
こんな初対面の彼女にこんな相談を持ちかけても良いものかとも一瞬判断に迷ったけれど、
「実は…」
それでも自分の胸だけにとどめて置けないこの思いを、秋緒さんに聞いてもらうことにした。
「…そう。あかねちゃんも大変なんだ」
…一通りあたしが話終えると、秋緒さんはまず一言そう言ってから、
「ま、料理の好き嫌いはともかく、ある程度は才能ってものも有るからね。それに、本当に上手くなりたいんだったら、もっともっと目に見える努力しなきゃね」
と、まずはあたしを諭すようにそう言った。
「はい」
本物のパテシエさんのアドバイスに、あたしは何だか背筋がピンとする思いだ。
「頑張って。なんだったらあたしがお菓子作りならいつでも教えてあげるわ」
「本当!?」
「ホントよ。ただし、うちのお店の営業時間外ならね。…それよりも」
秋緒さんはそう言って、ちょっと表情を引き締めた。
「問題なのは、そっちの彼の方よ。彼、あかねちゃんとちゃんと付き合ってるわけでしょう?それなのにそのはっきりしない態度、あたしは気にいらないわ」
「…。でも…」
「でも、じゃない。そんな無神経な事平気でする彼の為にあかねちゃんが泣く事ないわよ」
「…」
秋緒さんの言葉にあたしは何も言い返せなかった。
…「その通りよね」と思う心と、「でもあたしも素直じゃなかったから」と後悔する心と。
そんな思いがごちゃごちゃにまた湧きあがってきていて、なんて言ったらいいか自分でも分
からない。
だからこそ、こうやって公園で一人悩んでいたこの後…乱馬とどう接したらいいかさえも、分からない。
「…」
秋緒さんは、そんなあたしの様子をしばらくじっと見ていた後、
「…まあ、でもあたしがそう思ったところでさ。あかねちゃんはその彼の事がすごく好きな
わけだしねえ…」
「…」
「だったらさ。せめて、すごく美味しいえっと…なんだっけ?パウンドケーキ?
それ作って、彼を驚かせてやんなよ。『あたしだってコレだけ美味しく作れるのよ!どう
だ!』ってさ」
「あたしにも、出来るかな…。あたし、ホントに料理へたなんです…」
あたしが自信なさげにそう呟くと、
「任せなさい!あたしはまだ二十三だけど、これでも本場フランスで修業してきたこともあるのよ!そのあたしがちゃんと、教えてあげるから。その気になったら、連絡ちょうだい?お店に遊
びに来てくれてもいいわ」
秋緒さんはそう言ってあたしの頭をポンっと叩きながら、そう言って笑った。
そして、
「さ、ここでいつまでも話をしていてもお互い風邪ひいちゃうばかりだわ。そろそろ帰ろう」
お店の準備もあるのよ、と秋緒さんは最後に付け加えた。
「あ!あの、色々とありがとうございました!」
あたしは慌ててブランコから立ち上がり、忙しいにもかかわらず、ずっとあたしについていてくれていた秋緒さんにお礼を言った。
「ま、一緒に住んでいるんだったら、今日のうちに仲直りするにこしたことはないけどね」
秋緒さんも立ち上がり、あたしの前に立つ。
…改めてあたしの前に立った秋緒さんは、女性とは思えないくらい背が高く、スレンダーな体型をしていた。
夕闇に包まれた今では、初めに「女性だ」と聞いていなければ絶対に間違えるだろう。
「あの…ちなみに身長、どれくらいあるんですか?」
あたしが恐る恐る聞くと、
「実はねー、百七十三センチ有るのよ」
秋緒さんは、ちょっと肩をすくめながら教えてくれた。
(百七十三センチか。乱馬よりちょと低いくらいかな…)
あたしがそんなことを思ってると、
「でも、幸いな事に旦那は百八十センチあるのよ。ビックカップルでしょ?」
秋緒さんはちょっと照れ臭そうにそう言って、笑っていた。
「ふふ…そうですね」
あたしは何だかちょっとそれがおかしくて、思わず笑ってしまた。
「それじゃ、あたしはここで。困った事があったら連絡ちょうだいね」
「はい。ありがとうございました」
…あたし達は、商店街に向う曲がり角まで一緒に歩いてくると、そこで二手に分かれた。
秋緒さんは別れ際に、また子供をあやすようにあたしの頭をポンっと叩いて手を振りながら去っていった。
(…きっと、故郷にいる妹さんにもああやって接してたんだろうなあ)
そう、「お姉ちゃん」というよりまるで「お兄ちゃん」みたいに。
(美人なのにねえ…。まあ、でももう結婚してるし関係ないのか)
あたしは、美しいいでたちとは全く正反対の男性的なさばさばした内面を持つ秋緒さんが
何だかおかしくて仕方なかった。
(さ、あたしも帰ろう)
そして。
秋緒さんの姿も見えなくなったし、そろそろあたしも帰ろうか…そう思ってあたしが家のほ
うへと足を進めようとした、ちょうどそのときだった。
「あかね」
曲がり角の向こう、家のほうの道からあたしを呼ぶ声がした。
「?」
あたしが不思議に思ってそちらの方向を見ると…そこには、いつからいたのか分からないけれど…乱馬が立っていた。
でも、少し遠目からあたしが見ても分かるくらい、乱馬は恐い顔をしていた。
「乱馬…どうしたの?」
あたしがそう言って乱馬のほうへと歩いていっても、乱馬は何も言わない。
…もしかして、あたしの帰りが遅いから探しにきてくれたの、かな?
「ねえ、乱馬。もしかして…」
昼間喧嘩したことを乱馬も気にしてて、それでいつまでたっても家に帰ってこないあたしを探しにきてくれたの?
…あたしがそう乱馬に尋ねようとした、それより一瞬早く。
「誰だよ、アイツ」
乱馬はビックリするくらい低い声で一言そう呟くと、あたしの手を乱暴に掴んで歩きだした。
「ちょ…痛いってば!」
その力があまりにも強くて、そして強引だったので。
あたしは乱馬のその手を解こうと、もう片方の繋がれてない手で必死に抵抗するけれど、乱馬があたしを掴んでいる…というより捕まえているその手は、びくともしない。
こういうときは、本当に彼の力の強さを思い知らされる。
「誰って、秋緒さんのこと?」
…それでも、あたしが乱馬に引っ張られながらさっきまで話をしていた秋緒さんのことを説明しようとする
と、
「…」
乱馬は、突然立ち止まった。
そして、
「…昼間のことがあったし、いつまでも家に帰ってこねえから…」
「え?」
「探しに来てみれば…何だよ」
乱馬はそう言って、あたしの手をゆっくり離した。
「乱馬?何言ってるの?」
あたしは初め、乱馬が何を言っているのか分からなかったけど、
「ちょっと俺と喧嘩したぐらいで…何してんだよッ。何だよ、アキオってッ」
そういって、今まで見た事もないような険しい表情をして怒ってる乱馬を見ているうちに、あたしはようやく気が付いた。
…そうか。
乱馬のやつ、秋緒さんのこと「男」だと思い込んでるんだ。
暗闇だったし…一般の女の人よりはるかに背も高いしスレンダーだし。
何しろ着てる服なんかも男モノだったし。
「乱馬、違うの。あの人は…」
あたしは乱馬の誤解を解こうと、秋緒さんからもらった名刺を乱馬に見せようと差し出した
けれど、
「見たくねえよ」
乱馬はボソッと一言そう言うと、あたしが差し出した名刺を見もせずにつき返した。
「な、何よ…」
さすがにその態度にはあたしもカチンと来て、
「何よッ…元はといえば全部、乱馬が悪いんじゃないッ」
思わずそういい返してしまった。
すると、
「何だよ!何で俺が全部悪いんだよ!」
当然のことながら、すでに不機嫌だった乱馬はそんなあたしに言い返してくる。
「乱馬が、いつもはっきりした態度じゃないからいつまでたっても他の女の子が寄って来る
んじゃないッ」
「全部俺のせいなのかよ!?じゃあお前は何にも悪くないのか!?いつだって人前で意地
張ってんだろーがッ」
「張ってないわよッ」
「張ってるじゃねーか!あかねだってはっきりした態度で他のやつらに少しでも接してたら
もっと…」
乱馬はそう言って、ギリリ…とあたしとにらみ合う。
「なのに、何だよ!ちょっと喧嘩したぐらいで他のやつに…ッ」
そして、そう言って、あたしにくるりと背中を向けてしまた。
「なッ…だから、秋緒さんは別に…」
それでもあたしが尚も秋緒さんの説明をしようとすると、
「聞きたくねえよッ」
乱馬は一言だけそう言い捨てると、あたしをそのままにして家のほうに向って歩き出してしまった。
「ちょっと!乱馬!」
あたしがそんな乱馬を慌てて呼び止めるけれど、乱馬は一向に振り返らない。
(…何よ。何よ!自分の言いたい事ばっかり言って!あたしの言いたい事なんて、ちっとも聞いて
くれないんじゃない!)
…あたしは。
どんどん遠ざかっていく乱馬の後ろ姿を見ているうちに、悔しくて、悔しくて…でも情けなくて。
さっき公園で泣いていたときのように、どんどん涙が込み上げてきた。
「乱馬の…ばかー!」
あたしは、そんな乱馬の近くまで追いかけるように走っていくと、思いっきり、持っていたカバンを乱馬の後頭部に向って投げつけてやった。
バコ!
もちろん中身が入っているカバンが勢いよく後頭部にぶつかったので、
「痛え!」
乱馬は、ぶつかったはずみで開いてしまったカバンの中身とともに地面に転んでしまう。
「な、何すんだよ!」
いきなりカバンをぶつけられた乱馬は、訳がわからない様子であたしに向って叫ぶけれど、
「もう知らない!あたしの話なんて、聞きたくないんでしょ!だったら、もうあんたとは話さないッ」
あたしはこみ上げてきた涙を食いしばるようにそう叫ぶと、くるっと向きを変えて、もと来た
道の方へと走り出した。
「あ!おい、待てよ!」
乱馬が、そんなあたしの手を慌てて掴もうとするけれど、乱馬があたしの手を掴もうとしたその瞬間、あたし達の手がスルリ…とお互い触れることが出来ずにすり抜けた。
その為に、お互い空を切ったあたし達の手は宙ぶらりんのまま、走り去るあたしとその場にとどまる乱馬との距離を、どんどん作っていく。
「…勝手にしろッ」
…そう叫んで、道の脇にあるフェンスをガシャン!と掴む乱馬と、
「何よ、分からずやッ」
…泣き出すのを必死に堪えながら、商店街の方へと走っていくあたし。
さっき繋ぐ事が出来ずにすり抜けてしまった、あたし達の手が作り出している距離なんかよ
りも。
…今夜のあたしと乱馬の間には、もっともっとずっと長くて遠い「距離」が生じていた。