その日の、帰り道。
「…」
朝よりも気まずい雰囲気の中、俺はフェンスの上を、あかねはその下の歩道を歩いていた。
こんな状況だし、それにあかねは俺を軽蔑しているわけだから、ホントはわざわざ一緒に帰らなくたっていいのだけど、
「何で付いてくるのよ」
「別に一人だって平気よ」
そういって一人歩いていこうとするあかねの後をどうしても付いていかなくてはならない理由が、俺にはあった。
それは…
「こんにちは」
あかねがとある建物につくなり、俺に向けていたのとは比べものにならないくらいのあかるい笑顔で、あいさつをした。
「やあ、あかねちゃんに乱馬くん。いらっしゃい」
…そのあかねの笑顔の先には、東風先生。
そう、ここは先生が運営している接骨院。
そしてこの東風先生こそ…あかねが昔恋心を抱いていた人であり、「今」のあかねが…恋焦がれている愛しい人。
俺のあかねを、
俺のポジションを、いとも簡単に俺から奪い去ってしまった人だ。
…
「また遊びにきちゃいました」
あかねはそんなことをいいながらしきりに東風先生の近くへ、近くへと寄っていく。
「先生、この本見せてもらってもいいですか?」
「ベティちゃんも、こんにちは…って標本だから喋れないか」
…そんなことを言いながら、どうにかして先生に話し掛けようとしている、あかね。
それに対して、
「ああ、いいよ」
一度先生がそう返事をすれば、
「ありがとうございます!」
あかねは、悔しいくらいに可愛い顔で笑う。そう、暗示がかかる前に俺に、俺だけに見せていたような可愛らしい笑顔で、だ。
(…そんな顔で笑ってんじゃねえよ)
… 俺は。
楽しそうに話している二人を、いや楽しそうに笑っているあかねを、じっと端から見ているしかない自分が嫌で仕方なかった。
少なくても昨日の夜までは、あの笑顔は俺だけに向けられていたんだ。
俺だけのものだったんだ。
なのに…そう思うと更に、胸の内側がイライラする。
「…」
俺がそんなことを思いながら黙っていると、
「あかねちゃん。悪いんだけど、商店街の薬局に、お使い頼まれてくれないかな?」
東風先生が突然あかねにそう言った。
「え、いいですけど…」
あかねは笑顔で返事をしつつ、俺の方をちらっとみる。
そう、まるで「あんたが行けばいいのに」とでもいいたげな目だ。
「…俺が行くよ」
心の中でため息をつきつつ、イヤイヤながらに俺がそう言おうとすると、
「…薬局のおばあちゃんがね、こないだここへ来た時に、あかねちゃんに会いたがってたんだよ。だからお使いついでに顔を見せてあげてほしいんだ」
それが、おばあちゃんの元気の元にもなるからね…と、
東風先生は笑顔であかねにそう説明した。
「そうなんですか?あのおばあちゃんが…。わかりました!じゃあ私、行ってきます!」
東風先生の優しい笑顔に見つめられながらそんなことを言われては、さすがのあかねも反論はしない。
あかねはころっと態度を変えると、先生の言いつけどおりに接骨院からでていってしまった。
「…」
…勿論そうなると、診療室には俺と東風先生の二人きり。
「…」
普段は先生と話すなんて何でもないのに、こと今日に関しては何だか気まずい…最もそれは俺だけの事情だけれど。
俺が何も言わずに下を向いていると、
「乱馬くん、今日は何だかいつもと違うね」
そんな俺の態度に薄々何かを感じていたのか、東風先生が俺に気を使ってお茶を出しながら、そう言った。
「そ、そんなことないです」
俺が慌てて否定すると、
「そうかな?僕にはそうは見えないけど」
「見えないって?」
「何だか今日の乱馬くんは、僕とあかねちゃんには話してもらいたくないみたいだ」
東風先生は、柔らかだけれど確信を突いた台詞を俺に問い掛けた。
…図星だった。
「そっ…そんなっ…ことは…」
図星だという事を悟られたくは無いけれど、動揺しているために上手く言葉が出てこない。
俺が必死でそんな言葉を呟くと、
「僕とあかねちゃんが話をしているのを見ていた乱馬くんの目…あれは、男の子の目だ。
まるで、お気に入りの玩具を奪われたような感じだった」
「…あかねは、玩具なんかじゃない」
「言い方が悪かったね。あかねちゃんに僕が近寄るのを許さない…何だかそう訴えかけていたみたいな感じだったよ」
「…」
「近寄るもの全て払い除けてやる…そんな風に感じ取れたよ、少なくても僕にはね。それぐらい険しい表情で僕を睨んでいたの、乱馬君は気が付いてなかったのかい?」
東風先生は俺に気を使って言葉を選びながら、柔らかく笑った。
先生は柔らかく、そして事を荒立てないように穏かに言ってくれているけれど、もしも先生じゃなければ喧嘩になっていたのかもしれない。
自分では気が付かなかったけれど、そんなに俺は闘志剥きだしだったんだな…全てを見透かされているようで、俺は恥ずかしくなって目を伏せた。
すると、
「乱馬君もそうだけど、そういえばあかねちゃんも何だかいつもと違ったね。ちょっと前のあかねちゃんに戻ったみたいな感じがあったけど…何かあったのかい?」
東風先生は、目を伏せている俺の肩を叩きながら優しく問い掛けてきた。
「…」
俺は一瞬だけ迷ったけれど、「実は…」と、
恥を忍んで先生に事の次第を話した。
もちろん、「あかねが昔先生の事が好きだった」その事実は隠し、「俺と出会う前の頃の記憶が妙に甦る暗示にかかってしまった」とだけ伝えた。
全ての事情を聞いた先生は、
「そうか…それは大変だったね」
と、俺の心情を察し労いの言葉を掛ける。最も、先生は俺の苦しみや痛みなんて本当は半分も、理解できてはいないけれど。
…
「あかねちゃんの決めたキーワードを探さないと暗示が解けないって言ったよね?」
「はい」
「もう、見つけたのかい?」
「いえ…」
俺が声のトーンを少し落として答えると、
「僕には…何となくわかったような気がするよ」
次の瞬間、東風先生は俺に向かってはっきりとした口調でそう言った。
「え…」
…俺はその先生の言葉を聞いて、それまで伏せていた目をギョッと開いた。
それと同時に、自分でも驚くくらい胸が激しく鼓動するのを感じた。
頭の中も真っ白になった。
何だか急に、眩暈もした。
「僕が考えついた言葉を、聞きたいかい?乱馬君」
先生は続けて俺にそう話し掛けてくるも、
「…もう少し自分で考えてみます」
頭の中は混乱しているし、でも本当はその答えを知りたい…だけど、反射的に俺はその提案を拒絶した。
先生からは、聞きたくない。
答えを知りたい欲望よりも、その思いの方が強かった…本能でそれを感じ取ったからかもしれない。
…俺が一日考えても全然分からなかったことを、何で先生はたった数分で分ってしまうんだ。
あかねは、本当は俺のあかねなのに。
暗示にかかる前までは、あかねは俺のことを好きだったのに。誰よりも俺があかねのことを分っていたはずだって、思っていたのに。
なのになんで…なんで先生は俺よりもあかねの事、分かっちまうんだよ。
出会ったのは俺よりも早くたって、側にいたのは俺のほうがずっと、ずっと長い時間だったはずなのに…!
…
どうしようもない、焦り。そしてショック。
俺の中にあった根底を、何かが覆してしまうような妙な感覚があった。
もしかしたら、たとえあかねが暗示にかかってしまっていたとはいえ、それでも先生にはもう俺が負けるなんてあるはずがないと、どこかで思っていたのかもしれない。
それが完全にこうして砕かれたから、俺は…俺は妙に焦燥感を感じているのかもしれないな。
…
「…俺、先に帰ります」
「え?あかねちゃんを待ってなくていいのかい?もうすぐ帰ってくるはずだよ」
「今日は…」
「え?」
「今日はもう、帰ります。あいつも子どもじゃないし…一人で帰れますから」
今までみたいに…俺は最後に、皮肉ともいえないような言葉を吐き、立ち上がった。
そして、急によそよそしくなった俺の態度を更に心配してくれる先生を振り返ることも無く、診療室を出て行こうとすると、
「乱馬君」
東風先生が、そんな俺の背中に最後に一声、かけてきた。
「…」
俺が複雑な表情で先生の方を振り返ると、
「…真実というのはね、余計なものを全て取り払ったあとにある、ほんの小さなものなんだ」
「…」
「信じられないような単純な事が、自分の求めていた真実であることも多い。…もしも、どうしても考えても答えが分からなければ、もう一度ここへおいで。答えではなくて、答えを導く為の道を…僕が教えてあげるよ」
だって君は、あかねちゃんの許婚なんだから。先生はやさしい口調でそう言って、俺に手を振った。
「…」
俺はそんな先生に、ただただ黙って頭を下げるしかなかった。
そして、
今更ながらだけれど、どうしてこの人をあかねが好きになったのかを…改めて思い知らされたような気がした。
俺は、この人には絶対に敵わない。
…俺は、診療所から飛び出し家への道を走りながら嫌というほどそれを思い知らされた。
その瞬間、何だか今まで必死で追いかけていた「あかね」の存在が、ずっと、ずっと遠くへ行ってしまったような気がした。
それと同時に、
…
もしかしたらあかねは、俺の元にもう戻っては来てくれないかもしれない。
更にそんな不安に胸を苛まれ、身体中に鈍い痛みが走り抜けていった。