「きゃー!」
翌朝。早朝にそぐわないような悲鳴が天道家内に響いた。
絹を引き裂いたような悲鳴、というのはまさにこのような声をのことを言うのだろう。
若干冷静にそんなことを考えてみるも、この悲鳴の主が他ならぬあかねだとあれば話は別だ。
「な、なんだ!?」
俺が慌てて飛び起きると、
「・・・」
なぜか、隣でおとなしく眠っていたはずのあかねが、俺のことを今にも泣きだしそうな顔で見つめて・・・というか、睨んでいた。
「あかね、どうした?」
怖い夢でも見たのだろうか?それとも、まだ寝ぼけているのか・・・俺があかねに問い掛けても、
「あ・・・ああ・・・」
あかねはカタカタと震えながら、俺の隣からパッと離れ、部屋の隅っこの方で自分のみを守るように小さくなっている。
何だか様子がおかしい。
「あかね?」
寝ぼけているにしてもこの様子はおかしいぞ・・・妙に思った俺が、部屋の隅で震えているあかねに手を伸ばすと、
「いやあッ」
あかねは、触れようとした俺の手を拒絶し、今度は部屋の反対側へと逃げる。
「いや、って・・・え?」
な、何だ?俺、また何かしたか?
「おい、あかね・・・どうしたんだよ」
全く心当たりがない上に、把握できない現状。
拒絶されるも俺は必死にあかねに話しかけようと近づいていく。
とそこへ、
「ちょっとー、朝っぱらから何の騒ぎなの?」
痴話喧嘩なんて端迷惑な・・・と、騒ぎを聞きつけたなびきが、
隣の部屋から寝起きの頭をぽりぽりと掻きながらやってきた。
するとあかねは、近寄っていた俺を突き飛ばしてなびきの元へと駆け寄ると、
「いやあッお姉ちゃん!」
・・・まるで「助け」を求めるかのように、なびきへと抱きついた。
「ちょっとあかね、どうしたの?」
さすがにこのあかねの尋常じゃない様子にはなびきも驚いたようで、
自分に抱きついて震えているあかねを諭しながら、「ちょっと、この子どうしたのよ?」と同時に俺に対しても目でそう尋ねてくるが、
「わ、わからねえ」
俺は首を左右に振るしかなかった。
俺にも、何が何だか分からなかった。
昨日の事を根に持っているとも思えないし、それに何より、俺に対してのあの態度には理解しがたいものがある。
ああまで拒絶される理由が、俺にはどうしても理解が出来ない。
・・・
「仕方ないわねー、とりあえず話ぐらい聞いてあげるわ。ほらあかね、あたしの部屋へ行こう」
なびきはひとまずこの場を収めようと、泣きながら自分に抱きついているあかねにそう言って肩を叩いた。
「・・・」
あかねはそれに対して震えながら頷き、そしてチラリと一瞬だけ俺の顔を見た。
「!」
・・・俺は、その一瞬のあかねの瞳を見逃さなかった。
「はいはい、あかね、乱馬くんを睨んじゃ駄目よ。行こう」
なびきは、そんなあかねの瞳を「睨んでいる」もしくは「怒っている」と判断したのか。
そんなことを言ってあかねを宥めながら、
あかねと共に部屋を出て行ってしまった。
「・・・」
俺が何も言わずにそんなあかね達の後ろ姿を見送っていると、
「乱馬、あかねちゃんと喧嘩したの?早く仲直りなさいね」
「あかねちゃん、あんなに怒って・・・朝ごはん食べるかしら?」
いつの間にか俺の背後に、お袋とかすみさんが立ってそんなことをぼやいていた。
どうやらあかねの尋常ならぬ悲鳴を聞き付けて、やってきたらしい。
俺はそんな二人のぼやきを適当に交わしつつも、頭の中はさっきのあかねの瞳のことで一杯だ。
いや、一杯と言うかあの時のあかねのあの瞳が焼きついて、頭からも心からも離れない。
・・・
「あんなに怒って」?
「睨んじゃだめ」?
違うよ、皆。
あかねのあの「瞳」は、俺に対して怒っているから向けられたんじゃない。
俺に対して怯えてたんだ。
あかねは俺に対して「恐怖」とか「怖い」という感情を持っていたんだ。
俺に触れられたくないのは、俺の事が怖いからなんだよ。
「・・・」
俺は、自分の胸の辺りの洋服をぎゅっと、掴んだ。
それだけでも、胸が驚くくらいドキドキしていた。
・・・なんで?
何でなんだよ。
俺がいったい、何をしたっていうんだ・・・?
ついさっきまで、一緒に眠っていたじゃないか。
昨日だって、ぎゅって・・・手を繋いで眠ったじゃないか。
眠る前、何度も抱き合ってキスしてキスされて笑っていたじゃないか。
・・・俺の事、好きだって言ってくれていたのに。
俺は突然豹変したあかねの姿に戸惑ってしまう。
ただ、さっきの様子からして今俺が何かを言おうものならば事態が悪い方向に進む事間違いなし。
今は、なびきがあかねから話を聞くのを待つしかない。
「・・・」
・・・一体どうなっているんだ?
俺は、先ほどまでは居心地良く横になっていたあかねのベッドの上で、そわそわと落ち着かないままその時を待った。
・・・数十分後。
「は?記憶・・・喪失!?」
今度は俺が、いまだ俺に対して怯えているあかねに代わりなびきの部屋に呼ばれた。
そしていよいよ事の真相を聞き出すべくそれに望んだが、思いもよらぬことを告げられ、思わず叫んでしまう。
なんと、あかねは「記憶喪失」ではないかと・・・なびきは言う。
「正確にはそうじゃないかもしれないけど。でも、そう表現するのがあっているのかもしれないわ」
信じられないけどね、となびきは最後に一言そう付け加え、ため息をついた。
「どういうことだよッ」
確かに、信じられない。
だいたい記憶喪失って、例えば頭を強く打ったせいでなってしまうとか事故でそうなるとか・・・そういうものじゃないのか?
眠っていて次の日起きただけなのに、何で記憶喪失になるんだ。
俺が、眠っているあかねの頭を殴ったとでも言うのか?
それか、寝相が悪くてあかねが自分で床に落ちて頭を・・・?
・・・どちらにせよ、雲を掴むような話だ。俺がなびきに詰め寄ると、
「あかねの話を聞いてるとね、何かおかしいのよ」
「おかしいって?」
「あの子の中でだけ・・・時間が戻ってるのよ。乱馬くんが家に来る前まで」
「は?」
「あかね、乱馬くんの事が誰か分からないのよ・・・名前も、顔もね」
なびきはそう言ってため息をついた。
「目が覚めたら見知らぬ男が隣に寝てたって、さっき言ってたわ」
そりゃ、怖かったでしょうにねえ・・・となびきはため息をつく。
「・・・」
俺はそんななびきの話を聞き、まるで頭を何かで殴られたようなショックを受けた。
まるで早鐘のように俺の頭の中はガン、ガンと響いている。
・・・ようやくわかった。
あかねが俺に向けた、あの瞳の意味。
恐怖・・・そして拒絶・・・嫌悪。
あかねの瞳は、いやあかねは全てで俺を拒絶していたんだ。
眼を覚ましたら、見ず知らずの男が自分の手を握って眠っていたんだから当然といっちゃあ当然だけれど。
俺と出会う前のあかねなら、当然驚くだろうな。
俺はそう思った。
あの頃のあかねは男嫌い。
家族以外は東風先生以外、男を寄せ付けなかったんだから。そう、東風先生以外は・・・
「・・・」
俺の胸に、ザワリと一筋の風が吹いた。何だか、嫌な予感がする。
「ねえ、何でこんなことになったの?」
と。考え込んで無口になった俺に、なびきがため息をつきながら改めて尋ねてきた。
「知らねえよ、そんなことッ」
こっちが知りてえくらいだ!・・・わけの分からないこの状況に俺がむっとしながら叫ぶと、
「とにかく、病院に連れて行って治すにしたって、原因を突き止めないことには仕方ないでしょ」
なびきは、「あたしに怒っても仕方ないでしょ」と言わんばかりの表情で俺を睨む。
なびきの言う事は最もだった。
「そ、そうだけど・・・」
「あかね、昨日の夜何かしなかった?いつもと違う行動をしたことなかった?」
「いつもと違うこと・・・?」
とりあえず納得いかないし頭は混乱しているが、まずはその原因を究明しないことには始まらない。
なびきにせかされるように昨夜の記憶をたどり始めた俺は、その内とあることを思い出した。
「・・・あ!そういえば・・・」
俺の頭の中に浮かんだのは、昨夜八宝菜のじじいがあかねにプレゼントをした、あの中国製の妙な「お香」。
あの時、俺はその香りをしっかりと吸い込まなかったけれど、確かあかねは、お香を焚いてあの香の香りを思い切り吸い込んでいたっけ・・・
俺が「怪しいから辞めろ」っていったのに、アイツ確かそれを無視して更に匂いを嗅ごうとして、それで・・・
「・・・あれだ!」
「え?何か思い当たったの?乱馬くん」
「あれしかねえ!」
記憶が、確信に変わる。
俺はそう叫ぶなりなびきの部屋を飛び出し、あかねの部屋に飛び込んで机の上に置いてあった例のあの香が入った箱を掴んだ。
そして、
「じじいー!このやろーッ、出てきやがれー!」
怯えているあかね、不思議そうな家族を横目に、家中を駆け回りながらじじいを探すべく大声で叫んだ。
が、こんな時に限ってじじいは姿を現さない。
余計なときにいつも邪魔をしにくるくせに・・・と、俺はギリと唇を噛む。だが、俺にだってじじいが現れるまで待っている余裕など、微塵もない。
「・・・かくなる上はッ」
こうなれば、非常手段敢行だ。
俺は一瞬ためらいはしたものの、とりあえず風呂場に飛び込み頭から水のシャワーを浴び女の姿になると、
「やーん、濡れちゃったーッお洋服、着替えなきゃー!服、全部脱がなくちゃー!」
わざと家中に聞こえるような、甘ったるい声でそう叫んでやった。
すると、
「おー!スイートッ」
・・・俺の甘い声に釣られたのか、それまで呼んでいた時には姿を現さなかったくせに、今度はやけに素直に、どこからともなくじじいが姿を現した。
「確保ッ」
俺はそんなじじいの首根っこを素早く捕まえて床に叩き落すと、
「ホホホ、ひっかかったわねぇ!」
なぜか女言葉を叫びながら、シャワーのコードでじじいの身体をぐるぐる巻きにしてやった。
「おのれッ罠だったかッ」
悔しがるじじいに、
「あったり前だろ!」
もう女の姿でいる必要がなくなった俺は、今度はお湯のシャワーを頭からかぶり、叫ぶ。
そして、
「おい、じじい!昨日あかねに渡したあの香は何だッ」
いよいよ、本題突入。原因解明だ。
じじいの体を巻いているシャワーコードをぐいぐいと締め付けながら叫んだ。
するとじじいは、
「香?なんのことじゃー?」
あくまでもとぼけたような素振りを見せる。
「えーい、ヒモノにでもしてくれようかこのじじい!」
この緊急事態に!と、俺がシャワーコードを容赦なく左右に引っ張りじじいを更に締め付けて苦しめてやると、
「ぐ、ぐえー!分かった、わかったって・・・アレはわしが若かりし頃に苦労して手に入れた、“気持ち良い気分になれる”特別なお香じゃッ」
じじいはようやく正直にお香の話をする気になったのか、あかねには渡さなかったその香の説明書らしきものを、自分の懐からごそごそと取り出した。
そして、「ほれみろッ」と、自分が説明した通りの文が書かれている部分を指す。
俺は慌ててその説明書部分を声に出して読み始めた。
しかし・・・
「なになに?・・・このお香はどんな女性も良い気分にさせます。良い気分・・・それはすなわち、若き日の美しき良き自分を思い出して浸れる事。
つまりこの香をたいて眠ると、次に目を覚ました瞬間にあなたは、昔味わった切ない恋の思い出を甦らせ、あの頃のピュアな気分を再び味わう事ができるのです。
それと同時に、切ない恋の思い出を抱いていた頃の記憶へと遡り、心身ともにその頃のピュアな気持ちを味わえる暗示にかかってしまうのです・・・って!
バカやろー!良く読んでから持ってこーい!」
全て説明書を読み終わった俺は、怒りにわなわなと震えながら、捕獲してあるじじいを浴室の床に思いっきり叩きつける。
そして、ギリリ、と唇をかみ締めた。
・・・あかねにとっての「切ない恋の思い出」。
それは、東風先生への恋心。
そういえばさっきなびきは、「あかねは俺と出会う前の記憶に戻っている」といっていた。
子供の頃まで一気に戻るわけもなく、そしてあかねが一番「辛い恋心」を抱いていた時期といえばきっと・・・俺と出会う本当に少し前から、俺とであった直後くらいだろう。
だとしたら、今のあかねは東風先生がものすごく好きなわけで。
俺なんか眼に入らないくらい、胸の中も頭の中も全部、東風先生のことで一杯だという事になる。
「冗談じゃねえッそんな妙な暗示、早く解かないと・・・!」
・・・あかねは、もう俺のあかねなのに。
何でもう一度、東風先生のことなんか好きにならなくちゃいけねえんだ!
あんな辛い思い、もうしなくたっていいのに!何でもう一度あかねを引き戻そうとするんだ。
何で先生の事、わざわざもう一回・・・!
「・・・」
やり場のない怒り、言い知れぬ不安。
たとえ今は俺と本当に付き合っていたって、あかねがどのくらい先生のことを好きだったかくらい、俺だって少しはわかっていたつもりだ。
先生を好きだったあかねは、見ているこっちが思わず口を挟みたくなるくらい不器用で、でも一生懸命で・・・胸が苦しくなった。
かすみさんしか見ていない先生、先生を必死に追いかけるあかね、そして・・・そのあかねの姿を見守る俺。
あの時の、「一歩通行だらけ」だった頃の姿が、ふと頭をよぎる。
「・・・ッ」
俺は慌ててその映像を振り切るように、頭を振った。そしてじじいが残していった説明書に再び目を通す。
効能の説明、暗示の説明が書いてあるということは、暗示を説く方法も書いてあるはずだ。俺はとにかくその説明文を探した。
「あ、あった。・・・えーと?尚、お香の暗示を解くためには、あらかじめお香を焚いた人間が決めたキーワードを聞かせる事です。暗示にかかっているわけですから自分でそのキーワードを言うのは難しいですよね。ですので、誰か第三者にそのキーワードを言ってもらうのが好ましいでしょう。不特定多数の人間が、あらゆる場面で言えて尚且つ簡単に想像できる言葉が望ましいですね・・・・だと?」
・・・そんなの、知るかー!
俺は、ぶるぶると震えながら叫んだ。
あかねが決めた、お香のキーワードって、何だ?
そんな話、俺は全然聞いて・・・ああ!?
「あ!」
俺は、そこまで考えてはっと息を呑んだ。
・・・そういえば。
あかねがこの説明書を読んだとは思えないけれど、
昨日寝る前に、あかねはそれらしき事を言っていた気がする。
「乱馬・・・言ってほしい言葉があるんだけど・・・」
寝たフリをしていた俺に、あかねが語りかけていたあの言葉。
もしかして、それが偶然このお香の暗示をとくためのキーワードになってしまった・・・?
だとしたら、何で俺はあの時ッ・・・!
「チクショー!」
俺は、自分の不甲斐無さに激しく憤りを感じていた。悔やんでも悔やみきれない、怒っても怒りきれないとはまさにこのことだ。
「明日」・・・そんな不確定な未来に甘え切っていた自分に、俺は無償に腹が立つ。
そんな言葉に甘えたりしなければ、こんな事にはならなかったのに!
あかねが俺を忘れる事なんてなかったし、それにあかねだって・・・
「くッ・・・」
ガンッ
俺はやり場のない怒りを拳に籠め、側の壁を思い切り叩く。
普段ならうっすらとにじむような痛みが拳を伴うも、今日に限ってはその拳よりも心の中のほうがずっと・・・痛い。
俺があの時寝たフリなんてしていなければ、
あの時キーワードを聞いていさえすれば、
たとえ今日暗示にかかっていたとしても、あの時と同じキーワードで救ってあげることが出来たというのに!
俺は、自分のふがいなさに腹立たしくて涙がこみ上げてくる。
「・・・」
・・・しかし。
図らずとも、あかねはお香の暗示を解く人間に、俺を選んだ。
いや、今の状況からしたら「選んでしまった」の方が正しいのかもしれない。
選んでしまったあかねと、選ばれてしまった、俺。
あかねの暗示を解くのは、俺しかいない。
俺が、あかねの「言って欲しかった言葉」を・・・探し出すしかないんだ。思い起こさせるしかないんだ。
でも、
「あかねが言ってほしかった言葉・・・」
一体、それは何だったのか。今となっては全く見当がつかない。
元のあの幸せな時間に戻るために、どれだけ遠回りをしなくてはいけなくなるのか。
まだまだ先の見えないゴールを思い、決意したとは言えども俺は、大きなため息をついた。