そして、その日の夜。いよいよ時はきた。
あたしとなびきお姉ちゃんは、乱馬を掴まえるべく、乱馬のバイト先の中華料理店へとやってきていた。
勿論店の正面で待ち構えているわけには行かないので、「従業員専用」らしい少し寂れたドアの付近でウロウロとしていた。
幸いにも、ここは大きな交差点の近く。
近くには二十四時間営業のファミリーレストランもあるから、日が暮れた後若い女の子がうろついていてもさほど違和感はない。
・・・
「お姉ちゃん、やっぱり家で待っていてから話、聞いた方がいいのかな・・・」
夜、八時五十分。
乱馬が家に帰ってくるのは十時過ぎだけれど、美由紀さんを家まで送る時間を考えると、実質的にバイトが終るのはきっと九時過ぎ。そろそろ乱馬が出てくる頃だった。
それまではある程度決心をしていても、いざ時が近づくと急にその決意が揺らいだ。
あたしがお姉ちゃんにそんな事を呟くと、
「じゃああんた、乱馬君が美由紀って子を家に送っているのが分かっているのに、家で平気な顔をして待っていられるの?」
「そ、そんなこと・・・」
「もしかしたら、暗がりでキスとかしているかもしれないの分かっていて、待っているの?すごい精神力ねえ」
お姉ちゃんはそうあたしに忠告し、「じゃあ帰る?」と逆にあたしに質問した。
もちろんそんな事を言われれば、帰る事なんて出来ない。
「・・・待つ」
あたしはお姉ちゃんにそう答えると、再び乱馬が中から出てくるのを待った。
・・・そう。
別に確かめるんだったらココに来なくても出来る事なんだ。
例えお姉ちゃんが一緒でも、家で待っていれば乱馬は帰ってくるんだからそうすればいいだけの話だった。
バイト直後の乱馬を掴まえて問い詰めようと提案したお姉ちゃんに、「ううん、家で聞けばいいよ」って言えばいいだけの話だった。
でも・・・今お姉ちゃんがあたしに言ったように、美由紀さんと乱馬が一緒にいるのを知っているのに、その時間をあたし一人で待つなんて、もう嫌だった。
あたしの知らないところで、二人で楽しそうに笑ったり、そして・・・
「・・・」
・・・乱馬があたしをたくさん愛してくれていたのと同じような事を彼女としていたらって思うと、もう家でなんて待っていられなかった。
「・・・」
・・・早く確かめたい。でも、やっぱりまだ怖い。
早く乱馬に会って色々と聞きたい。でも・・・
「・・・」
複雑な思いを胸に秘め、あたしはただひたすら、乱馬が出てくるのを待った。
と、その時だった。
「お疲れさまでしたー」
「お疲れー」
・・・あたし達がウロウロとしているドアの向こう側が、急に騒がしくなった。
そして、ガチャリ、とドアが開く。
「あっ・・・」
「え、ちょっとあかね?」
ドアが開くのと同時に、あたしは無意識になびきお姉ちゃんを引っ張り、そのドアの死角へと身を隠す。
身を隠したあたし達の前を、あたし達と同じ年頃の男の子が二人、通り過ぎていった。
どうやら、乱馬と同じバイト先で働くメンバーのようだ。
「あんた、隠れてどうするのよ」
「ご、ごめん・・・」
あたしはなびきお姉ちゃんに謝りつつも、チラチラとドアの方を見る。
ドアの向こう側は、まだ騒がしかった。「お疲れ様」という声が、何度も飛び交っているのが聞こえる。
「・・・」
一秒、また一秒と時間が過ぎるたびに、乱馬を待つあたしの胸の鼓動は大きくなっていった。
そっと服の上から胸に触れてみると、驚くくらい激しく胸が動いている。
そんなあたしに肩を、なびきお姉ちゃんがぽん、と叩いた。どうやら、落ち着けといっているのだろう。
「・・・」
あたしは小さく頷いて、ドアを凝視する。
早く、出てきて。でも、出てきて欲しくない・・・
複雑な思いが、あたしの胸を過っては消えるのを繰り返していた。
・・・と。
「お疲れさまでしたー」
不意に聞きなれた声が、あたしの耳に飛び込んだ。
ドクン、とあたしの胸が高鳴った。
「乱馬君の声ね」
お姉ちゃんがボソッと呟く。あたしは小さく頷いた。
そうこうしている内に、ドアがガチャリと開いた。そして中からぐったりした様子の乱馬が出てきた。
「ほら、あかね」
お姉ちゃんが、あたしの肩を叩いた。行け、という事だ。
「・・・」
あたしは小さく頷くと、
「乱馬・・・」
いよいよ乱馬の前に出ようと足を前へと踏み出そうとした。
が。
「ちょっと待ってってばー!あ、お疲れ様でしたー!」
バタン!
乱馬が出てきたすぐ後に、そんな声がして女の子がドアから飛び出してきた。
そして、
「着替えるの早くないー?今日。いつもはもっとのんびりしているくせに」
「そうかな・・・」
「何か用事でもあるの?あ、もしかして彼女にばれちゃったんでしょ!?」
女の子はそういうが早いか、先に外に出ていた乱馬の腕をぱっと、取った。
彼女、というのは勿論乱馬の「彼女」のこと。それはイコール・・・
「・・・」
・・・あたしは、前に出るタイミングを失ってしまった。
「・・・あかね?」
なびきお姉ちゃんが、前に出ないあたしを不思議に思って声をかけた。でも、あたしの目の前に繰り広げられているその光景を見て、
「・・・」
後押しをする代わりにぽん、と肩を叩いた。
「・・・」
あたしは、何も答えることができなかった。
・・・乱馬の手を取ったのは、同じ年くらいの女の子。
夜の闇でも分かるくらい金髪に近い明るい髪で、肩より少し長いくらいのセミロングのストレートヘアだった。
顔立ちは、割りとさっぱりとした感じだ。でも、一般的に見ると「可愛い」と言われるタイプ。
身体にピッタリとしたTシャツを身にまとって、わりと豊満なバストを惜しげもなく乱馬の腕に押し付けている。
膝上十センチはあるデニムのジーンズに、素足にミュール。格好のいい足を惜しげもなくスカートから覗かせている。
・・・この子、昨日あたしがウインドウ越しにここを覗いた時、乱馬と楽しそうに笑っていた子だ。
それに気がついたあたしの胸に、鋭い痛みが走る。
・・・
「この靴買ったばかりだから、履き慣れてないのよね」
「それ、一昨日買った奴?」
「そう。ほら、帰りに寄ったディスカウントストアで衝動買いしちゃったあれ。おっと・・・」
女の子はよろよろとバランスが取れないかのようなおぼつかない足取りで、乱馬の腕にしがみ付いてバランスを取っている。
乱馬は、彼女がバランスをちゃんと取って歩けるようになるのを何も言わず待っているようだった。
「ああ・・・」
その様子をじっと見つめていたあたしは、無意識でそんな声を洩らしていた。
・・・心臓が、自分でも分からなくなるくらい激しく鼓動していた。でもその鼓動に負けないくらいグワングワンと、頭痛がしていた。
ある程度は、覚悟していた事。
確かめなくてはいけない真実が、そこにあった。
本当は見ただけでなく、ちゃんと尋ねなくちゃいけない。
でも・・・
「・・・」
・・・目の前で乱馬が他の女の子と腕を組んで仲良くしている姿を見て、これ以上もう、何を聞く?
あれこれと細かい事を聞かなくたって、目の前にあるこれが、全てだ。
あたしはそっと、目を伏せた。涙が一粒、零れ落ちた。
…彼女が、乱馬の腕を取った場所。そこは、いつもあたしが乱馬の腕を取る時に掴む場所と全く同じだった。
あたしはその場所に辿り着くのに、ものすごくたくさんの時間がかかった。
それなのに手に入れたのに・・・彼女は、ビックリするくらいの短期間でその場所に辿り着いてしまったんだ。
そう思ったら、更に涙が零れ落ちた。
「…」
・・・目を、閉じてみた。
再びこの目を開いたら、もしかしたらこんな光景、消えているかもしれない。
あたしはふと、そんな事を思った。
人間は辛い事に直面した時、まずそこから「逃げる」手段を考える。
現実逃避。今のあたしと、全く同じ。
目を開けたら、全てが夢だった。夢となって消えてしまえばいいと・・・そう思った。
目の前にいるのは、乱馬だけ。そう、乱馬だけなら・・・
「・・・」
あたしは、閉じられた瞳をそっと、開いた。
…でも、あたしの目に再び映ったその光景は、先ほど捉えた光景と変わらなかった。
あたしには、逃げる場所なんてないんだ。あたしは思い知った。
そんなあたしの目の前では、
「ねえ、そういえばさー、彼女具合が悪いとか言ってなかったっけ?乱馬くん」
「え?ああ・・・まあ」
「乱馬君、意外に冷たいよねえー。普通はさ、彼女の具合が悪かったら、バイトを誰かに代わってもらったとしても傍にいてあげたいとか普通思わない?それなのに、置いてきちゃったんでしょ?やるー・・・」
彼女はそんなことを言いながら、乱馬にニヤッと笑いかける。
「…俺がずっと傍にいてもいても、具合が良くなるかどうかわからないし」
乱馬は彼女にそう言って、ふう・・・と大きく息をはいた。
「ま、でも彼女には悪いけどしょうがないよね。乱馬君はどうしても、バイトに来たいんだもんねー?何でかなあ?」
彼女はそんな乱馬の腕をゆっくりと揺さぶりながら、笑っていた。
乱馬はそれに対して特に返事をすることなく、ただ彼女の姿を見守っているだけだった。
「…」
…ああ。
あたしは、再び目を閉じた。そして涙をぼたぼたと零しては、その場に立ちすくんでいた。
話を聞いて確かめるどころか、その場に立っているのがやっと、だった。
・・・と。
「・・・おいで、あかね」
それまであたしの背後で事の成り行きを伺っていたお姉ちゃんが、不意にそう言ってあたしの腕を取り前に出た。
そして、ぐいっとあたしの腕を引っ張ると、そのまま乱馬の前へと姿を表した。
「!」
お姉ちゃん、あたしもういいよ・・・そう、叫びたかった。
でも、そんな声も出せないほどあたしは、色々な思いに押しつぶされそうになっていた。
あたしの手を引いて乱馬の前に出たお姉ちゃんは、
「な・・・」
突然姿を表したあたし達に驚いて、言葉を失った乱馬の前でゆっくりとあたしの手を離した。
「あら、奇遇ね・・・乱馬君」
明らかに奇遇じゃないことなんて、誰がどう見てもわかっていた。
それでもあえてお姉ちゃんはそう言うと、乱馬に向かったにこりと微笑んだ。
「・・・」
その笑みが、いかに今の乱馬にとって恐ろしいものか。きっと乱馬が一番良く分かっているはずだ。
乱馬は、ビクッと身を竦めて息を飲んでいた。
そして・・・お姉ちゃんの後ろで、明らかに泣いていたとわかるあたしを見てさっと、表情を曇らせる。
「そっちの子は彼女?可愛らしい人ね。こんばんわ」
お姉ちゃんは、そんな乱馬を無視して乱馬の腕を取っていた彼女に話し掛けた。
「えー、あたしー?やだ、お互い別れてもう、付き合うしかないねあたし達。ね?乱馬君」
「あら、それはいいんじゃない?」
「そう?・・・ていうか、あんた誰?」
「あたし?あたしは乱馬君の知り合いよ。乱馬君とは家族ぐるみでお付き合いさせてもらっているの」
お姉ちゃんは、あえて自分が乱馬達と同居しているとは告げず、そんなことを言った。
そして、まさか自分の後ろに立っているのが乱馬の「彼女」だとは勿論言わない。
「あ、そうなんだ。あたしはバイト仲間よ。美由紀」
そんなお姉ちゃんの言葉を受けて、彼女・・・美由紀さんが答えた。
「・・・」
この人が、美由紀さん。
R、toM・・・。「M」の子だ。やっぱり指輪の相手はこの子だ。あたしはそれを確信した。
「ふーん、美由紀さんていうの」
お姉ちゃんは、その美由紀さんに笑顔を向けていた。
「で?これから帰るの?二人で」
「そ。乱馬君に送ってもらうの」
「へー、乱馬君て優しいのねえ。知らなかったわ」
お姉ちゃんはニッコリと微笑みながら乱馬に向かってそう言った。
お姉ちゃんのその言葉に、乱馬は何も答えなかった。その代り、乱馬は何か言いたそうな顔でお姉ちゃんの後ろに控えるあたしをじっと見つめている。さっきよりもずっと、表情を曇らせて。
・・・
その場に、少し沈黙が流れた。
「・・・」
・・・あたしは、目の前で繰り広げられるこの状況と、張り詰めた空気に激しく眩暈を覚えていた。
きっと。
このままこうして時を待てば、お姉ちゃんが何もかも解明をしてくれるのかもしれない。
誰かが何かを話して、どんどんと事情が明らかになるのかもしれない。
でも・・・
「・・・」
お姉ちゃんがあたしを引っ張って乱馬の前に出て行く前の、二人のやり取りを聞いてしまったら。
それが全てだって・・・その後に例え何を聞いても、何も受け入れられなくなりそうだ。
絶対に、おかしいもん。
絶対に、ただのバイト仲間じゃないもん・・・きちんと確かめなくたって、そんな雰囲気があることぐらい、この鈍いあたしにだって分かった。
そう思ったら、この場にいるのがもう耐えられなかった。
「・・・」
・・・次の瞬間、あたしはお姉ちゃんを置いて一人、その場から逃出した。
もう、いい。
もう、何も見たくないし聞きたくない。
もう・・・分かったからっ。
・・・
「・・・」
お姉ちゃんがせっかく、あたしの代わりに二人と対峙してくれていたのに。
なのにあたしは・・・
「・・・」
ごめんね、お姉ちゃん。
あたしは目にじわじわと溜まる涙を必死で手の甲で拭いながら、夢中でその場から駆け出した。
もちろんそんなあたしは、
「で?行かないの?乱馬君は」
「えっ・・・」
「まずいんじゃないの?行かないと」
「でも俺・・・」
「ま、何を大切にするかはあんたの勝手だし自由だけど。それがあんたの答えなわけだし?」
・・・なびきお姉ちゃんにそんな事を言われ、
「・・・」
慌てて美由紀さんを引き剥がして、走り去ったあたしの後を乱馬が追って走り出したことや、
「あ、ちょっと乱馬くん!・・・なによ、もー!送ってくれる約束なのに!」
「まあまあ。代わりにあたしが送ってあげるわよ。タクシーで」
「え、マジ?ていうか、初対面なのに。でもあたし、見ず知らずの人には勝手に着いていかないようにって椋に言われてるし・・・」
「・・・平気よ、あたし乱馬君の知り合いだし。ま、いいじゃない。タクシー代は乱馬君に後日請求しておくからご心配なく」
「はあ・・・まあそこまで言うのなら」
一体何が起こったのかさっぱり分からない様子の美由紀さんを、お姉ちゃんが乱馬の代わりに送ったことなど、知る由もない。
・・・乱馬達の前から逃出して、あたしはとにかく走った。
走って走って、夢中で家まで駆け戻ってそして・・・部屋に飛び込んだ。
昨日と同じく、電気もつけずに床に座り込んで、
さっきみたいに必死で唇を噛み締めて堪えるだけじゃなくて、声を上げて泣き出した。
泣き声、もしかしたら家の中の誰かに聞こえてしまうかもしれない。聞かれたくない。でも、どうしても自分ではセーブする事が出来なかった。
・・・一緒にいるのが、「当たり前」だって、いつの間にか思っていたの。
乱馬は、ずっと傍にいてくれるって。それがきっと普通で、当たり前なんだって、いつの間にか思っていたの。
きっと乱馬もそう思ってくれているのかなって、あたしは思っていた。
でも、それはあたしの驕りだった。
好きあっているんだから「当たり前」、付き合っているんだから「当たり前」、許婚なんだから「当たり前」・・・いつの間にかそうあることが「当たり前」だと思い込んでいた。
本当は、恋愛に「当たり前」なんて存在しない。
相手を思いあって、大切にして・・・そうやって育てていくから二人は一緒にいられるというのに、
いつのまにかあたしは、「信じる」という言葉をかさにしてそれを疎かにしていた。
「信じているから」なんて言葉を上手く使って、油断や余裕をカモフラージュして大切な事をおざなりにして。
その結果、気が付いた時には離れてしまった後だなんて・・・
「・・・」
・・・あたしの、自業自得じゃないの。あたしは、泣きながらそう実感する。
浮気をする事は、たとえどんな事情があれども許される事じゃない。
でも、その原因を作ったのはきっと、二人・・・乱馬だけは責められない。
そう思うと、乱馬に対してというより自分に対して腹が立つ。
「・・・」
お姉ちゃん、もう、取り返しがつかない・・・。
あたしは薄暗い部屋の中でわんわんと泣きながらボソッとそんな事を呟いていた。
と、その時。
コンコン…少し間隔の狭いノック音が聞こえた。
こんなドアの叩き方、なびきお姉ちゃんや他の家族では無い。
そう、このドアの叩き方は・・・
「…」
あたしは、そのドアを開けるかどうか迷った。
でも、
コンコン・・・
もう一度ドアが、ノックされた。さっきよりも大分間隔が狭かった。
「・・・」
あたしは涙でぐっしょりと濡れた頬を手で拭い、のろのろと立ち上がった。そして、ゆっくりとドアをあける。
そこには息を肩でしながら、あたしを見つめている乱馬がいた。
どうやら、あたしの事を追って慌てて走ってきたようだ。
「…」
・・・でも。
ドアを開けたのはいいけれど、いざ対面するとそれまで抱えていた色々な思いが胸を交差する。
顔、見たくない。率直にそう思う。
ドアを開けたけど、やっぱり閉めようか・・・あたしは再びドアを閉めようと取っ手に手をかけた。
けれど、乱馬はそれよりも一瞬早く手でドアを強引に大きく開けると、スルリとあたしの部屋へと入り込んで来た。
そして、ドアを後ろ手て閉めて、あたしと真っ直ぐ向かい合った。
廊下じゃなくてわざわざあたしの部屋に入り込んでドアを閉めたのは、もちろん今が夜だからというのもあるけれど、
…もしかしたら、あたしとこれから話す「内容」を、他の家族に聞かれたくないからかもしれない。
これから話す「内容」。
それは、浮気現場を抑えられた彼氏と、浮気を知ってしまった彼女が、その後対峙した時にするような内容。
ほぼ八割方、「別れ話」。
・・・
「…」
あたしは、乱馬とは目を合わせず俯いていた。
俯いていたその目から、止めようと思っても涙が零れ落ちる。
薄暗い室内だけど、あたしの目から零れ落ちた涙が床にじんわりと滲んでいくのが、はっきりと分かった。
「あかね、あの…」
乱馬は、そんなあたしに向かって静かに口を開いた。
「あの人、バイト先の仲間でさ、バイトが終る時間が一緒だったから、たまたま送るって事になって・・・」
そして、そんな話をあたしにして聞かせる。
「・・・」
・・・昨日ひろし君と、「自分から美由紀さんをバイト先から家へ送るのを申し出た」って話していたくせに。
これが、今日の朝皆で相談して練った対策?その場しのぎの方法?
・・・こんな状況でもまだあたしに嘘をつこうとしている乱馬に、あたしは酷く傷ついた。
「…靴、一昨日の夜一緒に買ったんでしょ?」
あたしは、俯いたままで乱馬にそう呟いた。
「あ、あれは偶然・・・その場にいて・・・」
乱馬は、更にどう考えても苦しい言い訳をした。
でも、自分でもそれが苦しい言い訳とわかるのか、そこまで言って黙ってしまった。
「・・・」
あたし達の間に、嫌な間が流れた。
と、
「あの・・・本当に何でもないから!」
「・・・」
「あれは、全然その・・・浮気とかじゃなくて!そういうのじゃないからっ・・・俺、お前が思っているようなこと本当にしてないから!だから信じてくれよ、な?」
しばらくの沈黙を破るように、乱馬がそう切りだした。
言い訳を止めた乱馬は、今度は浮気を開き直るかのような口調でそう主張する。
それに対しあたしは、何も答えることができなかった。
・・・一体あの状況を踏まえて、何をもって「信じてくれ」と言うのだろうか。
あたしが、あの現場だけを見て逃出したり泣いたりしているとでも・・・思っているのかな。
「・・・」
あたしは乱馬のその言葉がどうしても理解できなかった。
「あかね・・・」
乱馬が、混乱しているあたしの肩に触れようと手を伸ばした。
「・・・嘘つき」
「え?」
「嘘つきっ・・・」
あたしは乱馬のその手から逃れると、乱馬から一歩、後ずさる。
そして、
「RtoM・・・」
「え?」
「指輪…買ってあげるんでしょ?」
「!」
「あの子に指輪買ってあげる為に、頑張って働いているでしょ?それなのにっ・・・」
それの一体何を、あたしに信じろって言うの?
・・・声にならない声が、あたしの口から洩れた。
乱馬はあたしのその言葉を受け、明らかにギクリ、と表情を動かした。
それはたった一瞬で、その後必死に冷静を取り繕うとあたしを真っ直ぐと見たけれど、
そのたった一瞬を、あたしは残念ながら見逃す事が出来なかった。「ばれてしまった」、とでも言いたげのその表情が更にあたしを傷つけていた。
「彼女以外に、名前入りの指輪を贈りたいような女の子がいる人を・・・あたしに信じろって言うの?」
あたしは、そっと目を閉じながら小さな声でそう呟いた。
閉じた瞳から、大粒の涙が零れた。
「そ、それは…」
乱馬は、涙を零すあたしに戸惑いながら、必死に何か言葉を探しているのか、目をパチパチと落ち着きなく瞬きをする。
その仕草が更に、あたしを苦しめ胸を痛ませる。あたしはそれ以上は何も言わず、そっと手の甲で涙を拭った。
乱馬は、そんなあたしを見つめながらまだ、言葉を捜しているようだった。
そしてようやくあたしに言う言葉を見つけたのか口を開くも、
「・・・でも信じて欲しい。俺、本当にそういうのじゃないから」
・・・やっとあたしに答えた乱馬のその言葉は、また根拠のない「信じて欲しい」だけ、だった。
「・・・」
全然信じられないよ、乱馬。あたしは首を左右に振った。
「あかね・・・」
乱馬は、首を振るあたしの両肩を腕で掴む。
あたしは身体を捩ってその手を外させると、
「じゃあ・・・じゃあ乱馬、やめられるの?」
「え?」
「あたしに信じて欲しいなら・・・美由紀さんに指輪を買ってあげるのやめられるの?」
あたしは、あたしをじっと見つめている乱馬にそう尋ねた。
・・・本当は。
こんなこと言いたくなかった。信じる代わりにあれやめて、とかこれやめて、とか。
そういう取引はしたくなかった。
そんなことすれば今よりももっと自分が惨めに思えるし乱馬は離れていってしまうような気がした。
でも・・・あたしが乱馬を信じられるとするならば、それぐらいの証がないと今はだめだって・・・それも同時に思った。
どうしてもその気持ちを誓って欲しかった。信じる根拠を、ちゃんと欲しかった。
指輪をあげたいと思うくらい乱馬の美由紀さんへの気持ちが気持ちが盛り上がっていても、今あたしと話してその気持ちが少しでも落ち着きそうなのなら・・・誓ってくれるだろうって、そう思った。
「乱馬・・・」
どう、する?・・・あたしは、答えを待った。
信じて欲しいというのなら、絶対に乱馬は「出来るよ」って・・・言ってくれるってあたしは思った。
そうしたら、あたし・・・苦しいけれど少しだけ頑張れるような気がした。
それは一時凌ぎなのかもしれなくても、それでもそれだけの意志を持って乱馬はあたしに「信じて欲しい」って言っているんだと。そう思える気がした。
だからあたしは乱馬の答えを待った。
「あかね・・・」
乱馬は、あたしの名を呼んでしばらく間を置いた。
「・・・」
あたしは乱馬の答えを聞くべく、じっと彼を見つめた。
乱馬はそんなあたしをじっと真っ直ぐ見つめ返した。
乱馬は、一度そっと、目を閉じた。
そして、とうとう意を決したのか、再び目を開ける。
「・・・」
ああ、答えを聞けるんだ。あたしはその瞬間を待って、ごくりと息を飲み込んだ。
でも、
「…ごめん。それは出来ない」
「・・・え?」
「それだけは出来ない・・・ごめん、あかね」
・・・沈黙を破った乱馬の口から出た言葉は、またあたしが想像していたものとは違った。
「出来ないって・・・どうして出来ないの?」
乱馬の答えを聞き、そう問い返すあたしの声は明らかに震えていた。
「ごめん・・・他の事は何でも約束する。でも・・・それは出来ない。ごめんあかね・・・」
乱馬は震える声で問い返すあたしに、深々と一度、頭を下げた。
そして、それ以上何も言い訳も、主張もしない。
「…どうして?」
あたしは、そんな乱馬にもう一度そう問う。
「信じて欲しいって言ったじゃない・・・信じるからっ・・・信じるから、信じさせて欲しいって・・・そう言っているだけじゃないっ」
「あかね・・・ごめん、でも、本当に浮気とかそういうのじゃないんだ。だから信じて・・・」
「じゃあ何で!?何で指輪を渡すのやめられないの?」
「それはっ・・・」
「何でよ・・・そんなに美由紀さんを悲しませるのが嫌なの?」
そんなに好きなの?・・・あたしは、乱馬にそう問い掛けて再び目を閉じる。
閉じた目から大粒の涙が幾粒も零れ落ちていた。
「違う・・・あかね、そんなんじゃない!本当に違う!けどっ・・・」
「けど何よ!何でなの?!」
「けど・・・ごめん、それは言えない・・・んだけど、でも俺っ・・・」
「・・・あたし、信じられないよ乱馬・・・」
あたしは、零れ落ちる涙を手の甲で拭いながら、あたしははっきりとそう言った。
頭の中がガンガンと音をたてて鳴っていた。
耳は、まるで全ての事を拒絶するみたいに耳鳴りがしていた。
胸は、ドクン、ドクンと耳にまで響くほど大きなリズムで鼓動していた。
胸と耳と頭が、不協和音を立ててあたしの中で暴れている。
「・・・」
そしてその内、あたしの中で、何かがぷつんと・・・途切れた。
「はっきり言えばいいよ・・・美由紀さんのこと好きなんでしょ」
「あかね・・・」
「好きだから・・・彼女を悲しませたくないんでしょ?だから指輪、あげたいんでしょ?」
「・・・」
「・・・もう、わかったから・・・」
あたしは、零れ落ちる涙を何度も手の甲で拭った。そして、乱馬に伝えるのと、自分自身にそれを認識させるのと・・・あたしは二つの意味を込めてそう呟いた。
乱馬は、そんなあたしの様子に小さな声でそう呟いた。
・・・あたし達の間に、また静かな時間が流れる。
三度目だった。
そしてその三度目の沈黙を破ったのはやっぱり、乱馬だった。
「・・・お前がそう思うのなら、仕方ねえよな。でも俺は・・・」
乱馬は、静かな口調でそう呟いた。
そして乱馬は続けてあたしに何かを言おうと口を動かしているけれど、あたしの耳は「仕方が無い」の部分で既に他の言葉が入らなくなっていた。そう、「仕方ない」といったところで自分の耳を・・・無意識で抑えていた。
・・・乱馬の口から次にあたしに告げられる言葉を、聞きたくなかった。きっと、本能でそう思ったからかもしれない。
あたしが「乱馬を信じない」といったことで、この次にあたし達がどういう展開を迎えるかってことはすぐに想像がついた。
あたしが自分で「信じない」といったんだもの。
乱馬と、もしかしたらまた元通りになれるかもしれないチャンスを潰したんだもの。
そうした以上、次に乱馬に何を言われるかなんてすぐに想像がついた。
なのに、あたしはその言葉を聞きたくなくて耳を抑えてしまった。
・・・あたしはこんなところでも自分勝手だ。
・・・
ああ・・・終ってしまった。
胸に、いいようのない虚無感が生まれていた。
あれだけ怖くて、嫌で泣いていたその瞬間が・・・来てしまった。
あたしは、ぎゅっと唇を噛み締めてまた一粒、涙を流した。
そして、
「・・・終ったね、乱馬」
「終ったって何だよ。話ならまだ・・・」
「・・・あたし、大丈夫だから。もう部屋から出てって」
あたしはそっと耳から手を外した。そして、何かをあたしに向かって言っていた乱馬の言葉を遮り、乱馬にそう伝えた。
「・・・」
乱馬は、あたしのその言葉を受けてさっと、表情を曇らせる。「終った」の意味を、乱馬はそこで悟ったようだ。
乱馬の表情が更に翳る。
「・・・部屋から出て」
「ちょっと待てよ。大丈夫って・・・終ったって何だよ、それ・・・話のことじゃねえよな?」
「・・・」
「何だよそれ!まだ全然話も、それに・・・何も終ってねえだろ!俺は・・・」
乱馬は慌ててあたしの身体を捕まえようと腕を伸ばしてそう叫んだ。
でも、あたしはその腕から上手く逃げそして、
「・・・もう、出て!出てって!出てけー!」
素早くドア側に回ってドアを開けた。そして、乱馬の腕をがっしりと掴むと部屋の外に強引に押しやり、バタン、とドアを閉める。
「あかねっ…おい、開けろよ!あかね!」
部屋の外で、締め出された乱馬が何度もドアを叩いて何かを叫んでいた。
あたしは乱馬が部屋の中に入って来られないように、部屋の内側に堰を作った。
そして、叫ぶ乱馬の声を何も聞かずに済むようにと、ベッドに潜り込んで頭の上から毛布を被った。
・・・お姉ちゃんが言うとおり、あたしは自分の耳で真実を確かめた。
そして、自分なりに状況と事情を理解した。
乱馬にも、ちゃんと話を聞いた。話を聞いて、そして彼の気持ちを確かめた。
「お前がそう思うのなら仕方がない」
いかにもあたしの気持ちを汲んだような表現だけど、明らかにそれは乱馬の意志。それが彼の答えだった。
そして迎えた結末が・・・これ、だった。
「・・・」
頭からかぶった毛布の中で、あたしは目を開けてぼんやりとそんな事を思い返していた。
いつからか、一緒にいてくれるのが「当たり前」だと思っていた大切な人。
勿論相手もそうだと、信じて疑わなかった。
でも、いつしか相手の方はそう思ってはくれなくなっていた。
いつの間にか別に相手を探し、そして・・・あたしよりもずっと、深く思うようになっていた。
そしてあたしは・・・一人になった。
一緒にいてくれるのが「当たり前」の人が「当たり前」じゃなくなった。
あたしの中に残ったのは・・・自惚れて油断しきっていた自分への後悔と、そして言い様のない寂しさ。
そして・・・
「・・・」
・・・こんな結末を迎えたというのにも関わらず、あたしは、すごく、すごく乱馬の事を好きだったんだなっていう、そんな記憶ばかりが胸に残る。
心の中の大半を占めていた大切な人だった。
あたしの全てを司って、あたしの全てを動かしていた、とっても大切な人だった。
二人は心を通わせていたはずだった。
でも、その大切な人はもう、あたしの手の届かない所にその心を置いてしまっていた。
その心も、そしてすぐ傍にいたその身体も・・・もうあたしの傍にはいない。
だけど、そうやって彼の心も身体もあたしには手の届かない遠くに行ってしまっているというのに、
一緒に過ごした幸せだった時の記憶だけは、はっきりと残ったままだなんて・・・。
「過ぎ去りし恋の記憶は美しいもの」そんな美辞麗句ではこの気持ちは片付けられない。
冷静に記憶を、胸の中で美しいまま留めておくだなんてそんなの出来ない。あたしはそんなに大人じゃない。
・・・こんなの、酷いよ。
・・・
悲しくて寂しくて、そして虚しくて・・・そんな気持ちと同じくらいたくさん、胸の中には乱馬と楽しく過ごした幸せな記憶が溢れている。
望んでも戻れないその日々を、あたしは何度も思い出す。
終ったのだから、
そしてもう別の人のものになってしまったのだから、諦めなくてはいけない。
身が引きちぎられてしまいそうなほど切なくて、寂しくて悲しいのに、
そう思えば思う程、幸せだった頃の記憶が強く胸を過る。
「・・・」
この日あたしはまた一睡もせず、頭から被った毛布の中で、受け入れなければならない事実と、それに相反した幸せの記憶に埋もれていたのだった。