真っ黒のビロードの上に、無数に散りばめられた幾千もの星。
辺り一帯に広がる露草の上に寝転び天に手を延ばせば、それらの星を全部、ぜんぶ自分のものに出来たような気がした、子供の頃。
…ふとそれを思い返したとき、あかねは何だか胸が疼いた。
図書館から借りてきた、偶然手にした絵本。
その本に描かれる夜空の光景を眺めているうちに、子供の頃それらを見ては感激していたその行為が、何だかそれが急に懐かしく思えた。
忙しなく過ぎていく毎日。
いつの頃からか、ゆっくりと空を見上げることなんてなくなてしまった気がする。
最後に夜空の星をゆっくりと見たのは、いつだっけ?…あかねには、それさえも思い出せなかった。
そのせいもあり、せっかくなので、
「お姉ちゃん、あたしちょっと出掛けくる」
「え?今から?もう夜の八時だけど…」
「ちょっとだけだから」
…こんな風に昔を懐かしんだ夜は、忘れない内にもう一度その思い出に浸ろう。
あかねはふとそう思い立ち、夜も八時を過ぎたというのに、街外れの公園へと一人出掛けることにし家を出た。
が、
「あー、バス行っちゃったばっかだな」
…最寄りのバス停で時刻表を見ると、運が悪い事に公園へ向かうバスはあかねがたどり着く少し前に出てしまった後。
「運、悪いなあ」
あかねが思わずそんなことをぼやいた丁度その時、
「こっからなら次のバス待っているより歩いた方が早いぞ?さ、行こうか」
「…」
…一体いつの間に追いついたのだろうか。
何故か、乱馬がそんなあかねの背後からバスの時刻表を覗いていた。
そして、怪訝そうな顔しているあかねの手を取り、目的地でもある街外れの公園へと向かって歩き出した。
「…何でここにいるのよ」
あかねがそう尋ねるも、
「何で、じゃねえよ。こんな時間に一人で出掛けようとする方がなんで、だぜ。そんなに悪い奴等に襲われたいのか」
と、逆に怒られてしまった。
「別に襲われたりしないもん」
「俺なら襲う」
「…あんた、夜道歩いてなくたって襲うでしょうが」
「とにかく。俺も一緒に行く。いいな」
乱馬は、やれ暴漢に襲われたらどうするんだとか、やれ誘拐されたらどうするんだとか…端から聞いているとどちらが物騒なのか分からないような事
を、公園までの道々ずっとあかねにそんな事を説教して歩いていた。
「…」
あかねとて、ここまで心配してくれる彼氏がいると心強いし有り難くもある。
だが、暴漢よりも誘拐犯よりも、乱馬と夜道で二人きりの方が危険に思えるのは何故だろう?
あかねは、自分の手を引いて歩きながら時折狼の耳や尻尾を見え隠れさせている許嫁の後ろ姿を見ながら、小さな溜め息をついた。
「さ、着いた着いた」
案の定、乱馬は人気がない暗がりを歩けばすぐにキスをする。
途中何度か電信柱の影や路地裏で立ち止まった事もあったのだが、あかね達は無事に町外れの公園へとたどり着いた。
この公園は郊外な上に少し高台に位置しているので、余計に周りに遮るものなど何もなく空を見上げる事が出来る。
更に公園の奥に位置する見晴らし台まで足をのばせば、街中から見上げるよりももっと、星を間近に感じる事が出来るのだ。
「はー…綺麗ー…」
さっそくあかねは、公園の奥…芝生が敷かれている場所へとかけていき、寝転んで空を見上げた。
そして、大きく深呼吸をする。
…一度地面にしかれた芝生の上へと寝転んで大きく深呼吸をしてみれば、大きく息を吸い込むタイミングごとに、夜空に散りばめられた星々を吸い込
めるような気がした。
「天然のドロップだわ」
あかねが満足げな表現でそう呟くと、
「すげえなあ。何か、俺達のほうが星の海に浮かんでる気分だ」
隣りに寝転んだ乱馬も、珍しくロマンティックな表現をする。
天然の美しさというのは、人の中に眠る潜在的な美的感覚をも呼び覚ますのだろうか?
「…星の海かあ。乱馬にしては素敵な表現だね」
「ばかにしてんのか」
「褒めてるのよ。『星の海』なんて言葉、自分ではあんまり思いつかないもん」
あかねはムッとした表情をしている乱馬の方へ顔を向け、クスッと小さく笑った。
そして、
「じゃああたしは今、乱馬と二人で星の海に浮かんでるのね」
とつけ加える。
「そうそう。夜しか現れない、綺麗な海な」
「あたしと乱馬だけしか浮かんでいない海よ」
「…誰も知らない海な」
乱馬はそう言いながら、徐々にあかねへと手を延ばし、無造作に草の上に転がっていたあかねの手に触れた。
触れた手はあかねの肌の弾力ゆっくりと楽しみながら動き、徐々に指を絡めてくる。
あかねも、その絡められた指に自分の指を絡め、ぎゅっと握った。
「…こんなに綺麗な海ならば、溺れても良いかなあ…」
強く握り合っていない反対側の手を天に伸ばし、あかねがそんなことを呟くと、
「溺れられたら困るんだけど」
乱馬が、そんなあかねに対して苦笑いをしながらそう呟く。
「乱馬には迷惑かけないように溺れるもん」
「無理に決まってんだろ」
「うー…」
「ま、でも俺が手、繋いでたら溺れる事もねえよ。よかったな」
「…でも手を放されたら溺れちゃうじゃない」
あかねが乱馬のほうに顔を向けながらそう呟くと、
「離さねえよ」
乱馬はそんなあかねの唇に軽く触れながら、そう即答した。
「…じゃ、安心」
あかねはくすっと小さく笑いながらそういうと、
「…ただ、溺れたあかねを助けようとして手を繋いでる俺まで溺れたら大変だけど」
乱馬はそう呟いて、ため息をついた。
「何よー、じゃああたしを見捨てて手を放すの?」
「そんな事言ってねえだろ。あーあ、そのときの為に俺、体力付けねえとな」
「頑張ってよ」
「あのな。その前に、お前が溺れるなよ」
「…そっか」
あかねがぺろっと舌を出しながらそう言うと、乱馬は「やれやれ」と言う表情をして苦笑いをした。
あかねはそんな乱馬の姿を見ると、やはりまた小さく笑い、そしてそっと目を閉じ…乱馬のほうへと身を寄せた。
乱馬はそんなあかねの身体を更に引き寄せるようにと、繋いでいる方の手をぎゅっと自分のほうへと手繰り寄せ、そしてあかねと同じように身を寄せ合
いながら、そっと目を閉じた。
誰も知らない海へ行こう。
誰も知らない海へ行こう。
そして、たどり着いた幾千もの星の海で、黙って二人、身を寄せ合おう。
例え、その幾千もの星の海で溺れても、
…きっと、貴方とならば大丈夫。