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→5.その一歩が踏み込めない

「あかね、しっかり捕まってろよっ」
「ちょ、ちょっとまた!?」

 

…学校帰りに、シャンプー・小太刀・うっちゃんに追いかけられるのはいつもの事。
その三人から逃げるべく、俺は隣を歩いているあかねを抱きかかえ、屋根の上を飛んでは逃げる。
「もう、いい加減にしてよっ。何であたしまで巻き込まれなくちゃいけないのよっ」
俺の腕に抱かれているあかねは、決まって俺に文句を言うけれど、
「仕方ねえだろ」
あかねとは一緒に帰りたいし、
それにあのままあかねをあそこに置き去りにしたら、奴らの怒りの矛先があかねに向かってしまわないとも言えなくは無い。
勿論俺がそんなことを考えているなんて口が裂けてもいえないけど、
俺は「仕方がない」の都合のいい一言でそれを片付けてしまうのだ。

 

「ふー…ここまで来れば平気か」
…どの位逃げ回っただろうか。
どこかの、大きなお屋敷の屋根の上に辿り着いた俺は、そんなことを呟きながら一息ついた。
屋根の半分くらいに屋敷に寄り添って生えている木の葉が生い茂り、
角度によっては俺達の姿が見えない場所だ。
少し休むのも、隠れるのもちょうど良かった。
とりあえず三百六十度チェックしても、シャンプー達の姿は見えない。
「おい、あかね…もういいぞ」
俺は、それまで逃げる為に抱きかかえていたあかねに目線を移し、そう囁こうとした…けれど、思わずその口を噤む。
「…」
あかねは、自分の身体を抱き上げている俺から振り落とされまいと、力いっぱい俺の首筋に抱きついていた。
その上、ぎゅっと目をつぶって顔を俺の胸に押し付けて。
落とされまいとくっ付いているのが必死で、こうして俺が今、屋根の上で一息ついていることに気がついていないのかもしれない。

「…」
…どうしよう。こ、困ったな。

散々逃げている間はあかねのことを抱き上げていたにも関わらず、こうして止まった時には一体何をどうしていいのかわからなくなるなんて。
ただ、あかねを抱きしめていただけじゃないか…自分にそう言い聞かせてみたけれど、
俺の頭の中は、何故か真っ白になっている。
逃げている時は、「逃げる為に抱き上げている」。でも、逃げていない今は、ただ「あかねを抱きしめている」ことになる。
抱きしめているという行為自体は代わりが無いわけだし、
端から見たら同じように見えても、俺にとっては大きな違いだ。
「…」
…もう、逃げているわけじゃないから、あかねに教えてやらなくちゃ。
『もう、離れてもいいんだぞ』そう言ってやらないと・・・

「…」
頭の中では分っているはずなのに、何故か俺の口からその言葉が出ない。
離れてもいいんだぞと、教えてあげるべきだ。でも、
…離したくない
そんな思いが、強く心の中で蠢いているのもある。
こんなことがなければ、あかねをこの腕に抱く事も出来ないんだよな、俺…そう考えると自分の不甲斐無さが身に染みる。
自分がもう少し積極的になれば、こんなズルイことを考えなくたって、この腕にあかねを抱けるかもしれないのに。
格闘技以外では、どうしようもないくらいに俺は、意気地が無い。
「…」
ぎゅっと、俺の首筋に腕を回して抱きついているあかね。
俺は、そんなあかねの背中にゆっくりと、腕を回してみる。俺にとっては、かなり勇気がいる行動だった。
手に伝わる、ライトブールの制服の感触。それを伝って感じるあかねの体温。
そんなあかねの身体を、「力を入れたか入れないか」分らないような曖昧な力で、自分の胸元にもっと、引き寄せてみた。
…わざとこうしたことが気付かれたらどうしようか。
そしたら、「屋根から落ちそうだったから」とか何とか、誤魔化そうか…そんなズルイ言い訳まで考えながら。
俺の鼻先に、ふんわりと石鹸の匂いがした。
あかねのシャンプーの匂いだ。気が狂いそうな匂いだった。
その匂いに誘われ、まるで魔力でも得たかのように俺は腕に力を込めてしまう。
嫌がられたら…どうしようか。
いやその前に、俺がこんなことを考えているなんて知られたら…?
「…」
俺は、何だか頭の中でパニックを起こしそうだった。
色々考えていたら、眩暈までした。
それでも、あかねを離したくないのは本能なのか…頭の中はパニックでも、抱きしめたその手はどうしても離す事が出来なかった。

…と。

「…あれ?止まった?」
それまで必死に俺に抱きついていたあかねが、ふっと、俺から顔を上げた。
「あ、お、おう…き、休憩…する…いい場所…」
まるで片言の日本語を喋る外国人かのように、幾つもの単語を並べながら、俺はぎこちない手つきであかねの身体を腕から離す。
「もう、散々ね…巻き込まないで貰いたいわ」
あかねは、俺に実はつい今しがたまで故意に抱きしめられていたなど知らず、憎まれ口を叩いてため息をついている。
「わ、悪いな…」
そんなあかねに対し、かなり後ろめたい気持ちが強い俺は、思わず目線を反らしてそんなことを呟いた。すると、
「何よ、素直じゃない。気持ち悪い」
「気持ち悪いって何だよ」
「だって、乱馬らしくないじゃない。あたしに素直に謝るなんて…あ、分った!あんた、あたしに何か隠してない?」
「へ!?い、いや…」
「嘘!その様子だと何か隠してるわよ!白状しなさいっ」
俺の男心など全く理解していないあかねは、そんなことを言いながら、俺のおさげを引っ張ったりけらけらと笑いながらからかい始めた。

…ったく、デリカシーのない女だぜ。
俺が何考えているかなんて、きっとコイツ想像してねえんだろうな。心配して損したぜ。
俺はな、
俺はなあ…
「…」
…俺は、ただこの手で、おめえを抱きしめたかったんだよ。
こんな状況で、もしもの時に供えズルイこと考えながらじゃなくて、
いつかちゃんと、この手で堂々と。
そうやって思ってただけなんだよ…
「…」
でも、もちろんそれをあかねに伝える勇気など、今の俺には無いわけで。
口にすることが出来ない言葉を思い、のらりくらりとあかねの追及を逃れていると、
「…」
あかねはようやく俺をからかうのを諦めたのか、俺に背を向けた。
俺はほっと胸を撫で下ろす。
あかねは「高いのね…この屋根の上」とか何とか言いながら、暢気に上から地上を見下ろしたりしていたけれど、その内、ぼそっと一言呟いた。
「…気付かなければ良かったのかな…」
「え?」
「…何でもない」
俺があかねの言葉に問いかけ直しても、あかねはそれ以上は何も答えてはくれなかった。
「なあ、今の…」
どういう意味だよ。俺はそれでも気になってあかねに問い直すけれど、
「ねえ、もうそろそろ帰ろうよ…こんな所に長い間いるの、嫌だわ」
ほら、と、あかねは再び自分を抱きかかえるようにと俺に指示を出す。
「あ、ああ…」
本当はそれどころじゃないけれど、でもあかねの言う事も一理ある。
俺は先程よりも更にぎこちない手つきであかねの身体を抱き上げ、再び屋根の上を飛びながら、今度は家路へとついた。
その間、何度かあかねに先ほどの続きを聞こうとしたけれど、あかねは何も語らないまま静かに、俺の腕の中で小さくなっていた。
…余計な事を考えていた為に、胸の鼓動がいつも以上に強くなる。
あかねに伝わってしまうのではないかと、俺は内心ヒヤヒヤしていた。
こんなことが、一体いつまで続くのか。
お互いが思っていることを素直に口に出したら、こんな風にヒヤヒヤしたりドキドキしたり、居心地の悪い思いに苛まれなくたって済むのかもしれない。
なのに、どうしてもこの状況を打破する事が出来ない。
それが、今の俺達の全て。

 

もしかしたら、あと一歩俺が近づけば、それが叶うのかもしれない。
俺が後一押ししたら、何かが変るのかもしれない。
でも、今はまだそれが出来ない…たくさんのズルイことと、たくさんのやましい事を考えるというのに。

 

…腕の中にあるこの温もりは、触れているのにまだ、俺のものではない。
複雑な思いに苛まれながら、俺は屋根の上を飛んでいった。

 

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