とある夜のこと。
縁側であかねと並んで夕涼みをしていた俺は、今、人生最大のピンチを迎えていた。
命の危険が迫っているわけではない。いや、それの方がどれだけ、今の俺には良かったか。
俺は、俺の横に座っているあかねの横顔をちらちらと見つめながら一人、激しく胸を鼓動させていた。
…俺の横に座っているあかねは、風呂上りでフワリと、石鹸の香りがした。
俺の、とても好きな香りだ。
そして、白い肌がかすかに紅潮しているのが、またなんとも言えずそそられる。
そんなあかねの横に居れる俺は世界で一番の幸せ者なのかもしれない。
初めはそんなことを考えていた俺だった。しかし、それからすぐ、非常に深刻な事態が起こった。
…なんと可愛いあかねの頬に、一匹の蚊が、止まったのだ。
しかもその蚊、随分と長いことあかねの頬に止まっている。
止まっているという事は、その蚊があかねの血を吸っているということ。
きっと後で、あかねの頬にはぷっくりと、蚊に刺された後が残ってしまうに違いない。
「…」
もしもこれがオヤジだったなら、俺は何の躊躇もなくその頬を、平手でバチン、と叩くだろう。
でも、相手はあかねだ。
「な、何するの乱馬!」
「えっ…いや、その蚊が…!」
「蚊なんていないじゃない!ひどい、乱馬!あたしの顔を殴るなんて…!」
…もしも顔をしとめ損ねたら、俺はあかねの頬を思い切り平手打ちしただけになる。
そしたら俺は、理由もなくあかねを殴った酷い男。
可愛いあかねの顔を、容赦なく平手打ちした男という事になるのだ。
いや、例え蚊が止まっていたとしても、もちろんそんなこと、俺にはできるわけが無い。
「乱馬君、甲斐性ナシのうえに人でなしなんだー」
「乱馬、なんてことするの!」
「らーんーまーくーん!」
「乱馬君、私は暴力はいけないと思うのよ?」
「『父は悲しい』」
きっと家族だって、誤解をするに決まっている。あかねだって、
「乱馬なんて大嫌い!」
俺の事を誤解して、泣き出してしまうかもしれない。俺としてはそんなこと、どうしても耐えられない。
しかし、蚊を潰さなければあかねの頬はぷっくりと腫れてしまう。
きっとあかねに教えれば、あかねは自分で蚊を退治しようとするかもしれないけれど、不器用なあかねのことだ。絶対にとり逃がす事間違いない。
それに、もしかしたら他の場所…短いスカートからすらりと伸びている白い足や、ほっそりとした白い腕に被害が蒙るかもしれない。
俺としては、それだけは食い止めてやりたい次第だ。
「…」
思い切り叩いてみるべきか、それとも躊躇するべきか。
叩く…俺があかねの頬を叩く?
そんなむごい事は俺には出来ない!しかし、放っておけば可愛いあかねの頬は、後々…
「くっ…」
…それは、俺にとっては死活問題。これ以上難しい選択はない問題だった。
俺はどうすることもなく、あかねの気づかれないように一人、そんなことを考えながら悶えていた。
が。
「あら、あかね、動かないで?」
「え?」
パチン。
…たまたま廊下を通りがかったなびきが、そう言ってあかねの頬に軽く平手打ちをした。
そして、
「ほらあかね、蚊よ。あら、血が出てる…さされたんじゃないの?」
「え?あ、やだほんとだ」
「クスリ塗っときなさいよ」
俺が悶え苦しんでいるのをさておき、なびきはあかねの頬を叩いたその手を、あかねに見せた。
なびきの手には、血をたくさん吸って潰れた蚊が、くっついていた。
「ありがとう、お姉ちゃん。もー、乱馬ったら。蚊、乱馬がわにいたんでしょ?吸われる前に叩いてくれればよかったのに」
すると。
あかねは悶えていた俺に向かってそう呟くと、
「やだー、やっぱり刺されちゃったよ。かゆいなあ…クスリクスリ」
そんなことをぼやきながら縁側から立ち、居間のタンスにしまってある薬箱を漁りに居間へと引っ込んでしまった。
「…」
…「吸われる前に叩いてよ」って。
「…」
危機的状況は、回避できた。
しかし、あんだけ悩んでいた俺はなんだったんだ?
それにな、あかね。「叩いてよ」って言われたって、どんな理由があったとはいえ、俺がお前の頬を叩けるわけねえだろうが。
お前は俺の事、容赦なく叩けるかも知れねえけどさ。
…
「…」
こんな微妙な男心、きっとアイツにはわかんねえだろうなあ。
俺は、居間でクスリを探しているあかねの姿を見つめつつ、大きなため息をついたのだった。